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2007年06月12日 (火) | Edit |
玄侑宗久著「禅的生活」ちくま新書より(31)


曇った感覚に話を戻すが、
たとえば眼だって全てを見てはいない。

全てを見れるのは「うすらぼんやり」だけであり、
どこかに焦点を絞るということは大部分を
見ないことにすることだ。

記憶することはそれをさらに狭めることになる。
同じ場面にいた人でも、片や洋服の色柄を記憶し、

別な人は相手の表情ばかり記憶している、
というようなことが起こる。


それは両者の価値判断が違うからであり、
もっと言えばそれぞれの「行」の違いまで
遡れるのだろう。

耳だって人は聞きたい音を聞いており、
鼻の嗅いだ匂いに対しても佳い香りととるか
嫌な匂いととるかは人それぞれである。

以前、眼・耳・鼻・舌・身・意の順で社会性が
薄れると申しあげたが、別の言い方をすれば、

これは学習や経験によって身につけた価値判断の
影響を受けやすい順番でもある。

だから匂いは音や景色よりもはるかに本源的な
自分につながるし、味や皮膚感覚はもっとも
学習によって変化しにくい。

つまり「行」の支配を免れにくいから、
たとえば好きな人の作った料理は美味しく
感じるのだし、

同じように摩擦すれば誰がやっても
気持ちいいということにはならないのである
(あ、しつれいしました)。


そのようなしぶとい「行」が滅尽されたあとに
見える世界を、さっきから私はご紹介している
のである。

それはもう夢のような世界であり、
現実の生活でそれが続くことなどあり得ないと
考えていいだろう。

また十二因縁から判断すると、
それは胎児の世界そのものでもないことになる。

胎児もすでに「行」に染まっていると考える
のが仏教だからである。

ところで「お悟り」状態は現実には長続きしないと
申しあげたが、それは我々の生活する現実は常に
なんらかの「場」であり、そこには常になんらかの
価値判断が求められているからだ。

私の師匠が「現実では悟りなんかありえない」
とおっしゃるのはそのことだ。

座禅中は「無位」でいられても、ひとたび座から
立ち上がれば我々は常になんらかの「位」や「役」
を生きているのである。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
心に愛がないと
いくら奇麗事を並べ立てても、言っている本人に「愛」がないと
やはり心が蝕まれてしまうものなのでしょうか。。。
2007/06/15(Fri) 00:22 | URL  | マリア #-[ 編集]
言葉がたりませんでした。
真実は一つの世界だけど心の有様でおのおの別の世界に住んでいる・・と表現したらよいのでしょうか?また、心に愛がなくても表現がたくみであれば愛を感じる人がいるといわれますが、それは受け取る人の心に愛があるのではないでしょうか?心に愛がなくて、たくみに表現して、たとえ相手が愛を感じても言ってる本人の魂は知らず知らずに蝕まれていくのではないでしょうか?やまんばはそう思います。
2007/06/13(Wed) 09:34 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
チベットの死者の書
にも死後迎えに来てくれた仏さんを
自分に襲い掛かってくる悪魔のように
感じてしまうということが
繰り返し書かれています。

精霊をちゃんと見ることができる人は
少ないのかもしれません。

自分の心の中に潜む恐怖心が
精霊をガマガエルや小鬼や悪魔に
見てしまうのでしょう。

続きのジルファ、サラマンダー
お願いします~m(_^_)m


2007/06/12(Tue) 21:36 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
みんな同じ現実
ではないと思います。

それぞれが別々の現実世界に住んでいて
住んでいる世界もとうぜん別々・・・

またわたしは
「心に愛があれば表現がいかなる場合でも相手を活かす」
と考えることができません。

心に愛がなくても表現がたくみであれば
愛を感じる人がいるでしょうし

どんなに愛にあふれていても、
すこしも相手を活かすことができないことがあるとおもいます。
シェークスピアの『リア王』のようなことが現実にも
あるものと思います。

http://lokulog.blog43.fc2.com/blog-entry-279.html


2007/06/12(Tue) 21:13 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
精霊をみるには
 このブログでいう、悟りが必要じゃというだに。しかし、現実では、悟りはありえんだに。このブログのいうとおりだからだに。だから、精霊をみることはできんだに。
 精霊は死んだときにみえるというだに。死者の伝承でもあるだに。もし、生きている間に、精霊をみてしまうと、この世とはアベコベなので、たちまちショックを受けてしまうだに。
 例えば、土の精のグノームは、人間に襲い掛かり、埋葬しようとするような死神に映るというだに。だから、グノームは小鬼と呼ばれ、グノームは解体のシンボルで、グノームのこの世的形態は蟇蛙だというだに。しかし、グノームは人間より遥かに賢いので、蟇蛙なんかになるのを怖れているというだに。
 水の精ウンディーネの、この世的形態は、魚だというだに。ウンディーネも、魚になることを怖れているというだに。だから、魚にならないように、鱗みたいな硬い表皮をつくろうとするというだに。ウンディーネは絶えず変身する海のような存在だというだに。正体が知られないように、絶えず動き回っているというだに。
 河童伝説は、このウンディーネから生まれたようだに。ジルファ、サラマンダーはまたの機会に話たいだに。 
2007/06/12(Tue) 10:36 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
みんな同じなら
世界は無味乾燥ですね。10人の人が同じ風景をスケッチしてもおのおの興味の観点がちがうからおもしろい。みんな同じ現実におかれても住んでいる世界は別々。だからこそすばらしいと感心します。
ろくろくさん、催眠のお返事、ありがとうございます。「私たちは多かれ少なかれ催眠状態」・・なるほど。言葉は受け取る側が吟味しなければならないとおもいました。相手の言葉に愛があるか(やまんばが思うに、心に愛があれば表現がいかなる場合でも相手を活かす)そこを、みきわめる感受性をみがきたいです。そのためにはやまんば自身、毎日心をそうじしていかねばなりません。
2007/06/12(Tue) 09:42 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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