本来の自己は汚れないし傷つかない
玄侑宗久著「禅的生活」ちくま新書より(23)
本来の自己は傷つきもしないし汚れもしない。
しかし作り物の自己は作り物であるがゆえに
傷つき汚れやすい。
迷いも、この作り物の自己に特徴的な
現象なのだと思う。
ところで学習や経験がすべて妄想になるというなら、
なんだか人生そのものが否定される気分になるかも
しれない。
しかしそうではなく、禅が否定するのは学習や経験
によって形づくられた価値判断や好き嫌いによって、
今の出逢いに余計なものが介在することだ。
「先入観」なく、出逢えというのである。
先入観は「先入主」ともいうが、
これはなかなかに拭い難い。
たとえば百円玉を机に落とそうとするのを見れば、
脳のなかにはすぐに「チャリン」という音が浮かぶ。
その後実際に落ちても、
その先入観をなぞっているだけ、
ということが多いのである。
香巌智閑和尚のように、
瓦礫が竹にぶつかる音の響きを聞いただけで
悟る人もいるのだ。
介在物なしでなく見聞きするというのは、
それほど貴重な体験なのである。
先入観よりもまえから存在するのが
「主人公」であり、「主人公」が先入観なく
裸で出逢うことを「一期一会」と呼ぶ。
しかし知ってしまったことを先入主にしない
のは難しいことだ。
だから昔から、多くの禅僧は自分の名前にそうした
目標を掲げてきた。「無学」祖元、「大愚」良寛、
最近では山田「無文」老師の名前もそういう
意味合いだろう。
むろん「無学」など、もう学ぶことがないほど
学んでしまった状態と思われるが、これも通常の
解釈からはずいぶんヒネった禅的な解釈といえる
だろう。
いわば後天的な後天的な知識、
あるいはそれによって思考する以前の「無分別」を、
禅は指向しているのである。
中国宋の無文道?(むもんどうさん)禅師に
「百不知百不会」という言葉があるが、
これもなにも知らず会(え)す(理解すること)ことが
できないというのではなく、知ったり理解したり
したことを抱え込まないということだろう。
宮澤賢治の言う「デクノボー」にも同じ意味合いを
感じる。
まったくなにも知らない子供と「大愚」や「無学」
は当然同じではない。なにがどう違うかは説明
しにくいが、
実感としては座禅を繰返すうちに先入観なく対象に
対面し、しかもその際の発想がとても豊かになって
いくような気がする。
次回につづく
↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。



本来の自己は傷つきもしないし汚れもしない。
しかし作り物の自己は作り物であるがゆえに
傷つき汚れやすい。
迷いも、この作り物の自己に特徴的な
現象なのだと思う。
ところで学習や経験がすべて妄想になるというなら、
なんだか人生そのものが否定される気分になるかも
しれない。
しかしそうではなく、禅が否定するのは学習や経験
によって形づくられた価値判断や好き嫌いによって、
今の出逢いに余計なものが介在することだ。
「先入観」なく、出逢えというのである。
先入観は「先入主」ともいうが、
これはなかなかに拭い難い。
たとえば百円玉を机に落とそうとするのを見れば、
脳のなかにはすぐに「チャリン」という音が浮かぶ。
その後実際に落ちても、
その先入観をなぞっているだけ、
ということが多いのである。
香巌智閑和尚のように、
瓦礫が竹にぶつかる音の響きを聞いただけで
悟る人もいるのだ。
介在物なしでなく見聞きするというのは、
それほど貴重な体験なのである。
先入観よりもまえから存在するのが
「主人公」であり、「主人公」が先入観なく
裸で出逢うことを「一期一会」と呼ぶ。
しかし知ってしまったことを先入主にしない
のは難しいことだ。
だから昔から、多くの禅僧は自分の名前にそうした
目標を掲げてきた。「無学」祖元、「大愚」良寛、
最近では山田「無文」老師の名前もそういう
意味合いだろう。
むろん「無学」など、もう学ぶことがないほど
学んでしまった状態と思われるが、これも通常の
解釈からはずいぶんヒネった禅的な解釈といえる
だろう。
いわば後天的な後天的な知識、
あるいはそれによって思考する以前の「無分別」を、
禅は指向しているのである。
中国宋の無文道?(むもんどうさん)禅師に
「百不知百不会」という言葉があるが、
これもなにも知らず会(え)す(理解すること)ことが
できないというのではなく、知ったり理解したり
したことを抱え込まないということだろう。
宮澤賢治の言う「デクノボー」にも同じ意味合いを
感じる。
まったくなにも知らない子供と「大愚」や「無学」
は当然同じではない。なにがどう違うかは説明
しにくいが、
実感としては座禅を繰返すうちに先入観なく対象に
対面し、しかもその際の発想がとても豊かになって
いくような気がする。
次回につづく
↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。


2007-05-15 | 悟り 解脱 道 覚醒 真理に目覚める | コメント : 2 | tb : 0
Comment
92歳のばあちゃん
2007-05-15 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
本来に自己は傷つきもしないし汚れもしない。
介在物なしで見聞きする
日常、自分の心をみつめ訓練していきたいと思います。
明日から、少しの間、コメントを休みます。
ここの家の出はろくろくさんと同じ九州です。山鹿というところにご先祖様のお墓があり、ばあちゃんをそこに連れてまいります。なにせ92歳なので、どこまでいけるのやら、途中休み休み行きます^^。予定もたたない道中ですが、無理をせずボチボチいってきます。
介在物なしで見聞きする
日常、自分の心をみつめ訓練していきたいと思います。
明日から、少しの間、コメントを休みます。
ここの家の出はろくろくさんと同じ九州です。山鹿というところにご先祖様のお墓があり、ばあちゃんをそこに連れてまいります。なにせ92歳なので、どこまでいけるのやら、途中休み休み行きます^^。予定もたたない道中ですが、無理をせずボチボチいってきます。
2007-05-15 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]
コメントの投稿
Trackback
http://lokulog.blog43.fc2.com/tb.php/506-3b16b342
| HOME |




簡単にできることではないです。
頭が下がります。m(_^_)m
さていよいよクリシュナムルティの「瞑想」を
近々お届けすることになりました。
彼は「日常の自己観察」を繰り返し繰り返し
訴え続けた人でした。