2006年02月19日 (日) | Edit |
山崎龍明著「親鸞に人の生き方を学ぶ」中経出版より

親鸞の「悪人」の救いについて、
評論家・林田茂雄氏は次のように説いています。


親鸞は、仏教のおしえにしたがって、
人間としての苦悩や、けがれや、
おろかさなどからすくわれようとして、
坊さんになっていたのです。

ところが、そのころまでの坊さんには、
魚や鳥などの肉類をたべることも、
結婚して家庭をもつことも、
きんじられていました。

しかし、だれだって、
おいしいものはたべたいし、
妻や子どもたちとのたのしい家庭が
ほしいのです。


これは、人間であるいじょう、
ほしがるのが正直であって、
ほしがらないような顔をするのがうそです。

それなのにそのころの仏教の先生がたは、
ほしがらないことが善で、
ほしがることが悪だとおしえます。

いいかえれば、人間の本音をごまかして、
うその顔をつくってみせる者のことを
善人とよび、

人間の本性にしたがって
正直な要求をおしだしていく者のことを
悪人とよんだのです。

そこで親鸞は考えました。
(うそつきのほうが仏さまにかわいがられて、
正直もののほうが仏さまにきらわれるなんて、
そんなばかな話があるだろうか)と。

もし、仏教というものが、
人間のための仏教であるならば、

わたくしたちみんなの
基本的な要求をみたしながら、
わたくしたちをすくってくれるものが、
真の仏教でなければならない。

もし仏さまというものが、
人間にとっての最高の理想の
すがたであるならば、

人間の本性をもっとも正直にきたえあげ、
みがきあげていったものが、
真の仏さまでなければならないーーーー
親鸞は、こう考えたのです。
(『親鸞ーーー知恵と勇気の教師ーーー』十八頁 岩崎書店)

氏はこうもいいます。

ほかのすべての宗教家たちが、
神さまや仏さまのお気にいるように、
悪いことをやめて善いことをしなさい、

と説教するとき、
親鸞は平気な顔をして、
こう答えます。

「わたしには、善いことなんぞできない。
それどころか、
善と悪とのくべつさえわからない。

だいたい、人間の頭で考えだした
善悪のくべつなどというものを、
わたくしは信用できない。

善と悪について、
いかにもわかったようなことをいうやつは、
大きなうそつきだ。  (同書三一頁)


親鸞にとって「悪なる者の救い」とは、
人間そのものの救いを意味していたのです。
人間は、悪をおかし、罪をつくりながら
生きていく存在です。

というよりも、
「私」という存在そのものが
「悪」なるもの、「罪」なるもの
でしかなかったのです。


(ろくろく)さて、
まことの信心に生きる者は、
何ものにも妨げられることのない
無碍、自在なる人生を
生きることができるといいます。

この生き方を無碍の大道、無碍の人生道
と、いうのだそうです。具体的には

「自分の悲しみを人のせいにしない」
「自分の幸せを神々に祈らない」
「自らの生を自らのものとして引きうけて生きる」

を実践していくのです。



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2006/02/20(Mon) 14:21 |   |  #[ 編集]
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