2007年04月14日 (土) | Edit |
玄侑宗久著「禅的生活」ちくま新書より(14)


雪舟が画描いた「慧可断臂図」という絵を
ご覧になったことがあるだろうか?

そこで慧可は達磨さんに弟子にしてほしくて
何日も何日も頼みこむが達磨さんは面壁したまま
とりあってくれない。

ついに覚悟を決めた慧可がその覚悟のほどを示すため、
自分の左腕を切り落として右手に持ち、
達磨に差しだすという図柄である。

私が読んだ物語では、たしか岩穴の外では雪が
降りしきっていたはずである。


私が言いたいのはその面壁の様子である。
つまり洞窟の中のようなその場面で、
岩の壁は達磨さんに被さるほどに間近に描かれている。

実際あんな感じだったのかどうかはわからないが、
あれが本当だとすれば、私にはそこに禅の秘密が
あるような気がして仕方がない。

たとえばあなたの間近にある壁などに眼の焦点を合わせ、
それを見つめてみてほしい。そんなことは永く続けられる
はずもなく、すぐに眼が疲れてぼんやりした眼差しに
なるはずである。

しかし疲れるまでの時間、
あなたはさまざまなことを憶いだし、
たとえば嫌な奴のことを憶いだしては

壁にその顔らしいわずかな窪みや突起を見つけて
相手の顔になぞらえ、あるいは暗い気分になれば
小さな窪みをじっと見ていたりしたのではないだろうか。

そう。人間の感情は、何らかの形を見つけて常に安定しよう
としているのである。喜びも怒りも不安も、それなりに定着
できる足場を五官を使って無意識に捜す。

そしてこれが証拠だとでもいうように、居場所を見つけた
感情はやっぱりレッキとしたものだと主張するようなのだ。

しかし五官のうちでも八割方のはたらきをするという眼が
あんなふうに面壁していると、それはすぐに眼そのものの
疲労につながる。

いきおい眼差しはぼんやりとして「見るともなく見ている」
感じになってくる。半眼ではあるが眼を開いて座禅するのは
そのためだ。

薄暗い場所で半眼を続けていると何かを凝視することには
すぐに疲れ、もっとぼんやりした眼差しになってくるのである。

じつはこの「見るともなく見ている」感じこそ、
禅にとっては大切なのである。やや専門的に言えば
意識を拡散させたまま集中している状態、と云えるだろう。

見るともなく見ているとき、人は全体を見ているのであり、
そのときの意識はすでに普段の理性的なあなたではない。

理性的なあなたは左脳の支配下にあり、そこでは全体を分断して
部分にすることで物事を理解しようというはたらきが優勢である。
そこにおいて喜怒哀楽も視覚的な根拠や言葉まで獲得して
エラそうにしはじめるのだ。

しかし永いこと面壁しているとその根拠が得られなくなり、
やがては感情そのものが自信をなくして消滅する、
ということなのである。

あなただって、もし鏡に自分の姿が映らなかったらショックだろう。

それと同じように、あらゆる感情が自信をなくして
消滅したあとの何も映ってない鏡のような心の在り方を、
達磨さんは「廓然無聖」(かくねんむしょう)と表現した。


次回につづく


慧可断臂図(全図)

慧可断臂図(左下部分図)




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コメント
この記事へのコメント
不思議な絵だなあ
と私も思います。

シンプルで大胆であっけらかんとしたところと
それはそれは繊細でピリピリ張り詰めたようなところと
が同居しているように感じます。

2007/04/14(Sat) 23:24 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ジョルジュ.サンド
や宜保愛子さんのおはなしは、

達磨さんの「面壁」のはなしとつながりがあるように思います。

いま思い出しましたが、大学生のころ奈良の内観道場に
行ったことがありました。

そこで、半畳ほどのスペースに一週間ほど
閉じ込められ?自己洞察がよくできた体験
があります。



2007/04/14(Sat) 23:16 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
切欠  キッカケ
今日の錬金術者さんのコメントは大変面白かったです。

○面壁とは、3次元の世界を2次元で捉える訓練

○右手を切り落とすとは、右手は左脳につながっているので、
左脳の論理体系を捨てたという意味じゃろう。
論理体系を捨てると、感覚が無になる。

○人生を長い目、そこに成長や時間を加えて4次元でみれば、
そのとき、失意や、失敗、不幸のようにみえても、
後々、その失意や失敗、不幸が、切欠となって、
人間としての成長や経験を蓄積したといえるものとなっている。
なぜなら、自分のなかの高次元(6次元)の自我が、
成長や進化するために、そのような試練を、
自らに課しているからじゃね。

低次元(3次元)の見方をしていては、
毎日が苦労や苦痛の不幸の連続にみえてしまうじゃろうが、
それは、高次元(6次元)の自我が、成長、
進化するために、自らに課している修行といえるぞな。

などなど、とても納得しました。
ありがとうございます。^^


2007/04/14(Sat) 23:03 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
見るともなく見ている
やまんばは絵を描くとき、時々これをする。なんにもない和紙だけ貼ったパネルを見るともなく見ていると、やがて、画面にくっきりと絵が浮かぶことがあるのです。一度浮かんだ絵の残像を、なぞるようにすばやくパネルに定着させます。 
 紹介されたこの絵は岩の硬い細い線と達磨さんの衣の柔らかな簡潔な太い線の対比(達磨さんの周辺が暖かな温度を感じるし、衣が光ったように白さが きわだって見えます)、岩窟の奇妙な丸い穴、達磨さんの肩の上まで引いてある水平線。お二人の黒目の位置からくる表情などから、やまんばは不思議な絵だなあと感じていました。雪舟の他の作品とは随分ちがった印象を受けるのです。
2007/04/14(Sat) 15:20 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
そういえば・・・
「面壁」とはちょっと違うような気もするのですが。。。

ジョルジュ.サンドは子供の頃、家にあった銀のスクリーンをじっと見ていると絵やらイメージが見えてくることを「発見」して以来、小説にも生かしていたそうですし、故、宜保愛子さんも、同じく子供の頃、家具と家具の何十センチかの隙間の白い壁をずっとみていると、まるで映画やテレビの画面をみているかのように、いろんな場面や風景が見えてきたそうですが・・・

これってどうなんでしょう?!

面壁に向かって瞑想するのとは、やはり似て非なるものなのかしら?

例えは悪いですけれど「覚せい剤」と「LSD]くらい、その感覚に開きがあるのかしら?








2007/04/14(Sat) 15:16 | URL  | マリア #-[ 編集]
部分自己の世界。。。
こんにちは☆

カバラのリンク貼って頂きありがとうございます☆

面白いですわ。こうして客観的に分析されるのって。(だから大好き♪)

ただ、私も「占い」も宇宙の法則の(あくまで)1部であって、それが「全てではない」し、万能でもないと感じていますので、それに振り回されたり、ましてや、絶対視はしませんわ。。。

先日の記事ではないけれど、あくまでそれは「部分自己」であり「全自己」ではないことを大前提にしていますし。

「絶対」のないこの世にあって、あくまで個人的に信じられるのは(不本意ながら)魂の不滅というか、エネルギーの不滅、『肉体が滅んでも形を変え変化し続けるのが、宇宙の本質であり法則である』ということだけですわ

それも「今、現時点で」という但し書き付きの。。
2007/04/14(Sat) 12:53 | URL  | マリア #-[ 編集]
プラトンの面壁
 この絵によると、達磨さんは、面壁しながら、背後の振る舞いが完全に認識できたことを意味するじょ。常人では、弟子になるために、右手を切り落とす行為など認識できんじゃね。
 なにしろ、面壁というのは、3次元の世界を2次元で捉える訓練ともいえるじゃね。面壁のような話は、プラトンのイデア論にあるじゃ。
 プラトンは、我々人間は、3次元空間しか認識できず、まるで、洞窟の中で、壁に向かっているようなもんだといったじゃ。つまり、本質のイデアは、少なくとも4次元体で、それを、3次元空間の鏡(壁)として、部分的にみることしかできないといったじゃ。
 これを逆に、3次元に囚われるのではなく、3次元から4次元をイメージすること、つまり、面壁で、1次元増やして考える訓練のことを、幾何学と呼んだじゃ。だから、イデアを認識するには幾何学が重要で、神の認識に至るには、幾何学しなければいけないとし、自ら建てた学院の門に、「幾何学せぬ者は通るなかれ」と表札を掲げたというじゃ。
 恐らく、達磨さんの七転び八起きも、七次元よりも、1つ追加して、八次元としなさいという意味じゃろう。我々のみえる世界のみを追求するのではなく、それでは、部分にしかならず、誤りに至るので、みえない世界を思い描けという意味だと思うじゃ。
 右手を切り落とすとは、恐らく、右手は左脳につながっているので、左脳の論理体系を捨てたという意味じゃろうね。論理体系を捨てると、感覚が無になるので、3次元空間から、4次元空間に意識を飛躍できるじゃ。達磨さんが、手足がないという伝説も、3次元を超えて、4次元、更には、5、6次元、最後には、9次元まで至ったという意味なんじゃろうね。
 これはカバラにもあるが、逆にいえば、無から制限が与えられ、空間が生まれ、空間から光が生まれたということにあたるじゃ。この流れを、太古はエネルギーの概念がないので、天使の概念で表記していたじゃ。幾何学せぬ者は何をいっているかわからんじゃろうね。
 だから、簡単にいうと、我々が人生でのみ判断する出来事は、部分的(3次元)にしかみていないので、そのとき下す判断は間違いやすいということじゃ。
 少なくとも、人生を長い目、そこに成長や時間を加えて4次元でみれば、そのとき、失意や、失敗、不幸のようにみえても、後々、その失意や失敗、不幸が、切欠となって、人間としての成長や経験を蓄積したといえるものとなっているはずだというじゃ。なぜなら、自分のなかの高次元(6次元)の自我が、成長や進化するために、そのような試練を、自らに課しているからだというじゃね。
 だから、低次元(3次元)の見方をしていては、毎日が苦労や苦痛の不幸の連続にみえてしまうじゃろうが、それは、高次元(6次元)の自我が、成長、進化するために、自らに課している修行といえるぞな。
 幸せと不幸は糾える縄の如しとは、低次元と高次元が一緒にあるということぞな。狭くみれば、不幸だが、広くみれば、幸せなんぞ!
 実は、ここにカルマの法則があるというじゃ。
2007/04/14(Sat) 10:15 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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