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2007年04月12日 (木) | Edit |
玄侑宗久著「禅的生活」ちくま新書より(12)


赤肉団上に一無位の真人あり、面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、看よ、看よ。


赤肉団とは、我々の体のこと。
面門とは、眼・鼻・口・耳など五官のこと。

禅師はそこから「一無位の真人」が出入りしてるから
まだその証拠を見てない者は、ほら看ろ、そら看ろ、
とせっつくのである。

「無位」というのは、どんな立場でもない、
という意味と思っていい。


つまり、父親であったり男性であったり、
もちろん親にとっての息子であったり、
あるいはPTAの役員であったりと、

さまざまな立場として我々の命は発現し、
それは微妙に違うわけだが、
あらゆる立場や年齢などの社会的要素、

つまり「位」を離れた自分と対面せよと、
臨済禅師は迫るのである。

曹洞宗の道元禅師の言い方はもっと上品かも
しれない。彼によれば「無位の真人」は
「仏の御命」という表現になる。

自分が生きて動いていると思うがじつは
全て「仏の御命」の活動だとおっしゃる。

いずれにしても感覚では捉えられないというのだが、
それならどうやって看るというのだろう。
それが問題だ。

先に申し上げた六識の奥に、
仏教では自我という執着に染まった第七マナ識、
それから個人を超えたすべての体験の残り香が
保存されているという第八アーラヤ識を想定する。

マナ識はちょうどフロイトのいった「潜在意識」
にあたり、ユングがそれを「個人的無意識」と
呼んだものに相当するのだろう。

どうやらこうしたものを手がかりに、
感覚では捉えられないものに迫るしかなさそうだが、

彼ら心理療法家のように夢を分析したりするのは
禅的ではない。
もっと体からアプローチするのが禅なのだと思う。

無意識からの声を身体症状から読み取ろうとしたのが
ユング派の心理療法家にして物理学博士という
アーノルド・ミンデルだが、

彼に言わせれば頭痛や吐き気など、
何もしないのに感じる症状は
潜在意識の声であり、

なにもしなければ痛くも痒くもないが、
指で押すと痛かったりするような部位からは
集合的無意識の声が聞きとれるという。

彼はこれによって「全的自己」を昏睡状態でも
発現させようとするのだが、禅というのも体に働き
かけることによって「全的自己」を発現させる道
ではないだろうか。

つまり感覚で捉えられるのは部分的自己、
感覚で捉えられないのが「全的自己」であり、
無位の真人であり、仏の御命というわけだ。

前節で申し上げた「可もなく不可もなし」というのは、
いわば部分的自己だけを見てあれこれ評価することが
無意味だと言う主張でもある。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
言葉には限界があり、
真理を表現することができません。

体を張って生きていくことの中から
掴まえ所を見つけていくということなんでしょう。



2007/04/12(Thu) 22:40 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
表現こそちがうけれど・・
全的自己 明け渡し
幸せに行き着くための道をいろんな言葉で表現されているのですね。言葉を生きたものにするためには、説明のつかない生に一歩踏み出すしかないと思えます。途中で「あてにならない  ばかばかしい」と思っても、子供のように素直に信頼して、粘り強く・・・。
どんな方法でもいい。心安らかに生きることができればそれでいい。方法は一つではないと思います。人間の数ほど、準備されていると思います。ここにはその道に至るサンプルが紹介してあると思えるのです。
2007/04/12(Thu) 09:22 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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