2006年02月17日 (金) | Edit |
山崎龍明著「親鸞に人の生き方を学ぶ」中経出版より

人間は、さまざまな欲望や「はからい」の中にしか
生きられない存在です。

そのことに気づいたとき、
親鸞の生きる道はもはや
「他力」(仏中心)の道しか
ありませんでした。

精神科医の神谷美恵子さんは
『人間を見つめて』(朝日新聞社刊)
の中で、こう書いています。


宗教には、自力宗と他力宗というのがあるが、
これもこの見地からみれば、
そうはっきり区別できないもののようになってくる。

もちろん人間は意識的に、自分の力で自分を統制して、
出来るだけ自他にとって有益無害な
生活をおくるべく努力すべきであろう。

これはいまさらいうまでもないことだ。
しかし、自力による修養や瞑想によって
どうしようもない自己というものが、
人間の奥底にはひそんでいる。

利己的で、わがままで、でたらめの原始的な自己は、
おそらく<古い脳>のなせるわざであろう。
もしそうした自己を直視するならば、

それをありのままみとめ、
----これが宗教でいう<ざんげ>とか<告解>
とかいうものではなかろうか----
最終的には<人間を超えるもの>に
身をゆだねるほかないのではないだろうか。

いわゆる<さとり>とか<見神>とか<回心>
とかいう宗教的境地は、
自力の精進の結果あらわれることもあれば、
他力の前に自己をなげ出すことによって生まれることもある。

自力といっても、自分ひとりの力であるはずはなく、
自分では意識したくないたくさんの内外の条件が
そなわって初めて成就することなのだから、
結局は大きな意味でやはり
他力というべきではないかと思う。 


親鸞の「悪」と「愚」に対する深い認識は、
必然的に「他力」によらなければ人間の救済はない、
といった世界に結びついています。

一般に「罪」というと、殺生とか、盗みとか、
よこしまな異性関係などですが、
親鸞のいう「罪」の世界は、
もっと人間の深層を問題にしています。

親鸞はそれを「自力のはからい」
(自己中心性)といいます。

その心とは「どこまでいっても自分を
中心に立てずにはおかない」心です。

独占欲、支配欲のとりこになり、
自分以外のすべての人、物を、
自分の支配下に置かなければ
満足することのない心です。

それを親鸞は「自力のはからい」
といったのです。

自力とは、どこまでも自己の全能力をあげて
ことにあたる世界のことです。
立派な世界です。

他力とは、どんなに懸命に事にはげんでも
不可能のこともあると自覚し、
不可能を不可能と認め、受容して
立ち上がっていく世界のことです。

自力はもの(能力など)を握りしめる世界、
他力は握ったものを離していく世界です。
そこには安らぎがあります。
人間の解放があります。


次回につづく


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2006/02/18(Sat) 07:07 |   |  #[ 編集]
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