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2007年03月17日 (土) | Edit |
玄侑宗久著「禅的生活」ちくま新書より(4)


普通に「心」という場合、やはり喜怒哀楽
という感情を指すことが多い。

これらを私は一次感情と呼ぶが、
じつは人間にはもっと複雑な感情がある。

つまり意識的・無意識的とを問わず、
人間は感情の残り香を記憶として
蓄積していく動物だから、

もっと複雑に練り上げられた感情を
もつこともできるのである。
たとえば憎しみ、たとえば怨み。


ある意味では佳い感情の蓄積が愛情を
生みだすのかもしれない。これらは二次感情
と呼ぶのが相応しいだろう。

恋というのは愛というよりももっと一次感情的
フェロモン的ではないだろうか。

あるいは食べたい眠りたい異性と接したい
という三大欲求も「心」の作用と云われる。

それらを「心」なんだから仕方ないじゃないか、
と認めてしまうのではなく、しょせん「心」が
捏造したにすぎないじゃないか、とバカにする。

ことに二次感情をバカにするのが
禅の基本的立場なのである。

標題の「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」は
『開甘露門』というお経の冒頭にちかい一節だが、
もともとは『華厳経』からの引用である。

そこでは世界の在り方を観ようと思うなら、
まず世界が心で造られたものだと見極めよ、
と説かれる。最明寺入道時頼は詠う。

心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな

また詠み人知らずだが次のような歌もある。

心ぞとなに名をつけて思うらむ 
一物(いちもつ)もなき元の面目

いかに心など信用していないか、バカにしているかが
わかるだろう。言い換えれば、本来一物もないのが
「心」と考えられており、

そうじゃないなんらかの感情に染まった状態の「心」は、
あまり相手にしないほうがいいということだ。

この考え方は、現象学の創始者であるフッサールの発想
にも通じる。彼は意識のありようで世界が違って見える
ことに注目した。

たとえば一軒の家を見ても、普通の人は「家庭」と見る
かもしれないが大工さんが見れば窓とか壁の集合体に見え、
泥棒が見れば人がいる気配ばかりが気になる。

フッサールもそんなふうに、世界はそれぞれの意識に現れる
姿を考えるしかないから、外界についての考察は判断中止
(エポケー)して、

なんの先入観もない純粋な意識に現れた世界を厳密に記述
することでわれわれの生を解き明かそうとしたのである。


次回につづく


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