碌々(ろくろく)ブログ

先哲の教え、言葉などを通して  心身の健康、真の幸福  そして人生成功の秘訣を  共に探求していきましょう

星屑がひとつ燃えるような死

五木寛之著「不安の力」集英社文庫より (36)


人間の不安のなかで、
死への不安は根源的な不安である。

このことは、西欧の実存主義哲学の
出発点でもあります。人間は自分が
死ぬということを知っている。

けれど、自分の死を自分は体験できない。
だから、死を思って不安になる。

この不安から逃れるために人は
さまざまな気晴らし(パスカル)をして
頽落(ハイデガー)に人生を送る。


もし、人生をなにかしら意味のあるものとして
充足させたいと思うなら、

死をしっかりと見つめ、
自分は必ず死ぬのだと死を受け入れて、
そこから限定された生の時間を大切に生きていくべきだ。

と、まあ、若いころに読んだ哲学書ですから、
うろ覚えなのですが、「不安の概念」や「死に至る病」
を書いたキェルケゴールや「存在と時間」のハイデガーは、
おおよそこんなふうに言っていたように思います。

キェルケゴールは不安は自由のめまいだとも言っています。
そして、不安の可能性は「有限性のなかで息を引き取るか、
無限性の獲得か」だとも書いています。

少し難しくなりますが、言い換えると
「絶望」するか「自由」になるかだ
という主張です。

当然、不安に徹して、「自由」への可能性を開け、
と彼は言うのです。そしてこの主張がハイデガーに
引き継がれるわけです。

興味深いことに、彼のキリスト教の「原罪」の捉えかたは、
人は自分の力では決して完全な存在、つまり、神になれない
ことを証拠だてるものだというものなのです。

これは、親鸞の「悪人」と大変に似通った存在の把握です。
親鸞の「悪人」とは、煩悩に苦しみながらも自分の力では
決して仏になれないから、他力によって仏にしてもらう
わけです。

不安を徹底して絶望に至るのではなく、
ある転回点で絶対的な自由を獲得する、
という考え方にも共通性があるように思えます。

……
人は有限の生命というものを肌で感じたときに、
えもいわれぬ不安感というものをおぼえる。

では、この不安とどう向き合い、
どう付き合っていくのか。
それぞれの人間につきつけられた課題なのです。

真摯に立ち向かい、自由を手にするのか、
それとも、パスカルが言うところの気晴らしで
ごまかしてしまうのか。

その選択によって人生の充実は大変に異なる
だろうと思います。

人が生まれてくるということも偶然だし、
人間が死んでいくということも、
大きな宇宙の中の星屑がひとつ燃えるような、
そんなふうなものだと思います。

しかし、われわれは人間としていまここに生を享けている。
この事実を大切に受け止めたいと思います。


次回につづく


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2007-02-16 | 癒し・ヒーリング |  コメント : 7  |  tb : 0

Comment

正しい  ということ。

ろくろくさんのお返事をみて、なおさらやまんばは「正しい」ということは何なのか?と思い巡らせていました。確かに正しいという行ないは、現象としては一つではない。だからといって各々が自分が正しいということをしていたら、世の中大混乱になる。いかなる方向からでも土地を掘り起こし続けたら、かならずマグマがあるように、人間共通の{正しい}はあるのではないか?もやもやしながら、夕べは眠った。機嫌が悪かった。

だけど、今朝、やまんば、自分で納得する答えが泉のように浮かんできたのです。
正しく見る、思う、語る・・・そうするためには、心を無にしなければ、できないことなのだと!どこまでも青い青い透き通った青空。かすかな雲があってはならない。だから、瞑想したりして、あらゆる、執着、邪念、考えから、離れなければならないのだと。自分が自分だあることさえ、忘れるくらいに・・。そうしなければ、「正しい」ということの本当の行為はできないのだと、気がつきました。    だ け ど !     
人間は生きている限り、この肉体を維持し続けなければならないのだから、完全な青空になれない。(一瞬は感じても。生きて生活するということは青空ではありえない。)「完全」(=青空)は神とか仏とか、宇宙の法則とか呼ばれる存在のみ、適用される言葉。だから、やまんばは常にそこに立ち戻る必要がある。・・そう思いました。

2007-02-17 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

「有限性のなかで息を引き取るか、無限性の獲得か」というキェルケゴールの言葉の意味を知りたいですね。後者の意味は、「そのために生き,そして死ぬことを願うような理念を見出すこと」と解釈してよいでしょうか。そして、その理念とは神とか信仰とかということになるのでしょうか。キェルケゴールは高校生の時に少し読んだ記憶がありますが、内容は記憶にありません。

2007-02-17 | kounit #- | URL|[ 編集 ]

八正道

八正道の、
正しく見る、思う、語る、働く、生活する、
人と調和する、目的意識を持つ、
反省と瞑想をする、で

それぞれの正しくしているか していないか、
どうしたら自分でわかるのですか?

ですから、こうしてブログを書いたり、
皆さんと意見交換したりしながら、正しい生き方を
探っているわけです。

自分で正しいと思えばそれですべてがOKとは
ならないでしょ?

だから日々を振り返り己を反省し
瞑想する時間を持つ。

ということです。





2007-02-16 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

インカルナチオ

じゅにく【受肉】
神が人の形をとって現れること。
キリスト教では、神の子キリストがイエス
という人間性をとって、この地上に生まれたこと。


受肉はもともとキリスト教の言葉ですが
錬金術者さんはインカネート(受肉)の繰り返しで、
(輪廻転生)リインカネートするという。

キリスト教では一般に輪廻転生説は採らないから
とても興味深いです。
ここのところをもう少し分かりやすくご説明
頂けたらありがたいです。


2007-02-16 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

何回も読んでますが・・・

ここ4日分のろくろくさんと錬金術者さんのコメントは大切なことがかいてあるとおもわれるので、何回も何回もよんでます。
だけど八正道の、正しく見る、思う、語る、働く、生活する、人と調和する、目的意識を持つ、反省と瞑想をする、と書かれてあるけど、それぞれの正しくしているか していないか、どうしたら自分でわかるのですか?自分で正しいと思えばそれでいいのですか?

2007-02-16 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

言葉のインカネート(受肉)

 人間が言葉を発する前には、思いがあるじゃ。何かを表現したいという欲求が、言葉を空気の振動に変え、音にするじゃ。
 これは一種の受肉ぞな。
 この世界で、生きることを表現したいと思う気持ちが、この世界のものに乗り移り(受肉)、現実化したとき、それに対する周囲の抵抗をうけて、感覚となるじゃ。
 思いが、言葉に受肉し、伝播するとき、一種の触覚という体験の感覚をもつじゃ。
 煎じ詰めれば、これの繰り返しじゃ。インカネート(受肉)の繰り返しで、(輪廻転生)リインカネートじゃ。
 感覚を広げるために、新たな思いを出発とするために、受肉から、自由な解放へと、思いは結ばれるじゃ。
 そこに恐怖心なぞ微塵もないぞよ。
 日々の思いに執着をもたずに、変えていくことぞな。生は常に死と共にある。
 ただ、思いが強すぎると、解放に気づかず、死を意識しないものになるだけじゃ。偽の恐怖の死に囚われすぎてしまうだけじょ。
 我々は肉体とは関係なく、常に死んでいるじょ。肉体は、感覚を与えるための保護具じゃ。

2007-02-16 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

やまんば、あんまり深く考えまい。

というより、あんまり深く考えられない。すぐもつれるから。まあ、大きな力におまかせして、死ぬまで、ココンコ コロコロ生きていきます。

2007-02-16 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

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