--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2007年01月24日 (水) | Edit |
五木寛之著「不安の力」集英社文庫より (25)


むかしは、成熟への道をたどることは美徳でした。
それがいまは、成熟していくのはよくないことだ、
という価値観の時代に変わってきた気がします。

その根底には、老いることは悪である、
大人になることも悪である、
という考え方が存在する。

いくら「美しき老年」などと言っても、内心では、
誰もができるだけ長く若わかしくいたい、
若さを維持したい、と思っている。


その若さが失われていく不安に抗するために、
ファッションも、肌の手入れも、あるいは髪を染めることも、
年齢よりもずっと若いほうへとシフトしていく。

とにかく、年齢の割にその人が若く見えるということが、
社会から注目される時代になっているのはたしかでしょう。
それに比例して、若さが失われることへの不安というものは、
年々増大していくことになるわけです。

……
ぼくはつねに「我ありて彼あり」であるべきだと
思っています。たとえば、高齢の人の落ちつきや、

いぶし銀のような存在があってこそ、
初々しさの魅力も引き立つ。

一方に成熟というものがあってこそ、
若さがキラキラと輝く。

けれども、現状では、若さはいいけれども成熟はだめだ
というように、片方の価値しか認めていません。

そうなると、これは正義か悪か、と言うものの考え方と
非常によく似てきます。その一元論でいまの世界が支配
されているということが、じつは大問題だろうという
気がするのです。

ぼくは二元論者です。すべてのものは、対極にある
ふたつのもののきわどいバランスの上に成り立っている。
成熟が美しければ美しいほど、老年が見事であればある
ほど、若さのみずみずしさも、無鉄砲さも輝きを放つ。

それが、いまは一方的に若さだけが大切にされている。
社会が若さの方向へ一方的にシフトして、そちらのほう
へものすごい勢いでどんどん進みつつある。

これから少子化が進んでいけば、大人の文化が出現する
のではないか、という説もあります。けれども、どうも
日本という国では、幼いことや若いことがいいと思われ
ているらしい。

これほど子どもっぽいカルチャーが大事にされている国
は、世界のなかでほかにないだろうと思うほどです。


次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング


スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
ヤマハ エレクトーン
は1台でギターの音も、バイオリンの音も、
ベースの音も、ドラムの音も出すことができます。
1人の奏者でフルオーケストラの演奏も可能であると、
当時は大変評判になりました。

その後シンセサイザーが主流になり、
エレクトーンよりもずっとリアルに
オーケストラの演奏が出来るようになりました。

富田勲のLP「月の光」や「展覧会の絵」は
本当にすばらしかったですが、
すぐに飽きてしまいました。

これはやっぱり「1度になってしまった」んだと
思うんです。一面的で、浅薄な音になった。

1人1人が1つ1つの楽器を持って演奏するものは
なかなか飽きがこないです。

「個人の個性と結びつかなければ、
多種多様のシンフォニーにはならんじゃ」

はほんとうにそうじゃと思います。


2007/01/24(Wed) 22:48 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
やまんばさん
何回読み返しても
今日のコメントのなかで以下の文の
意味が分かりません。

「やまんばの周辺にはあまり見かけません。都会だけの現象でしょうか?それとも、やまんば自体がすでにおかしいのでしょうか 」

以上のところです。

「意外に真面目なのに驚いています」は、
男女一人づつの若い知り合いのことですよね?

ところが「やまんばの周辺にはあまり見かけません」
は、なにが「あまり見かけません」のでしょう?

続いて「都会だけの現象でしょうか?それとも、やまんば自体がすでにおかしいのでしょうか」どのことをさしているのでしょう??




2007/01/24(Wed) 22:11 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
五重の塔と音感と世帯数
 五重の塔をみていて感じたじゃ、古代は、音感が5度だといったじゃ。恐らく、五重の塔は、老年、壮年、中年、若者、子供が、一緒にくらす家庭や社会の理想の象徴だったように思えるじゃ。五重の塔は、五重の協奏曲のようじゃ。
 3度になると、3世代で、老人、大人、子供が一緒に暮らす家庭や社会となるじゃ。
 いまは、ほぼ核家族なので、1度になっているといえるかもしれんじゃ。いま、2世代、3世代、或いは、2世帯、3世帯のような、住宅や社会が必要なのかもしれんぞな。
2007/01/24(Wed) 11:45 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
音感の歴史
 やまんばさま、オーラの話は、前回を御覧あれ! 今回は、音の感覚について書くじゃ。それは音感と、現代の若さへの一元論にシフトする状況が類似しているからじゃ。

 太古、人間は7度の音感を持っていたというじゃ。「はにほへといろ」のことじゃという。しかし、太古人は、自分では歌えず、それを神の存在と捉えていて、ただ、神の音色の単なる聴衆者だったというじゃ。
 そこから、は、へが抜けて、5度の音感にかわったという。このときの古代人は、やはり自分では歌えず、自分のなかに、神の存在が降りてきて、音色を奏でるのを感じたというじゃ。いまでいう、動物が鳴く感覚に近いというじゃ。動物には、自ら鳴く意識はなく、鳴かされるようなものらしいじゃ。動物をみていると、周囲の気配を感じ、いわばある法則に沿って鳴いていることがわかるじゃろう。
 そして、ギリシャ時代になって、3度感覚になったという。人間は、3度感覚になってはじめて、長調と短調を生み出し、自ら歌える存在になったというじゃ。
 この3度感覚は、大まかに子供期、大人期、老年期を意味していると思うじょ。子供期には子供らしい音があってよいじょ。大人には大人の音が似合うじょ。老人には老人の音が似合うじょ。でなければ、社会が奏でる協奏曲は、一面的で、浅薄な曲になるじゃ。
 このままでいくと、人間の音感は1度になってしまうじゃ。1度になるにしても、個人の個性と結びつかなければ、多種多様のシンフォニーにはならんじゃ。つまり、若者が目立つ文化ではなくて、年齢に限らず、個人が目立つものでなくてはならんじょ。
 だから、益々、各個人の精神性が問われてくるじゃ。宇宙のシンフォニーを奏でるための一個人の音になるべきじゃ。
2007/01/24(Wed) 11:27 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
やまんばの知り合い
昔から、男女を問わず年上の方が多かったです。落ち着くし、話がおもしろいからです。ところが、最近若い知り合いが、男女一人づつできました。なんとも愉快です。また、意外に真面目なのに驚いています。やまんばの周辺にはあまり見かけません。都会だけの現象でしょうか?それとも、やまんば自体がすでにおかしいのでしょうか^^。
2007/01/24(Wed) 10:51 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。