2006年12月25日 (月) | Edit |
A・スマナサーラ著「運命がどんどん好転する」慈悲喜捨の瞑想法 国書刊行会より(19)


そういう性格の人の独占欲とも言うべき素材は、
何も道具ばかりとは限りません。

自分の才能、自分の時間、自分の知識なども
みんな自分の所有のものとして持っている意識が
あるものですから、それすらも共有することを拒否
してしまうのです。

仏教用語で言えば、こういう状態を「もの惜しみ」
という一語によって説明していますが、こういう人も
また人とのコンタクトを取ることができません。


ふつうの人は自分で何か持っていてそれを他の人も
使っているという部分からコミュニケーションが
はじまっているのですが、

こういう人というのはそのコミュニケーションの
きっかけからして拒絶しているのですから。


たとえて言えば、
私はパーリー語を話すことができるのですが、どなたかが、
「自分もパーリー語を勉強したいので、教えてください」
と言ったら、私は即座に、「どうぞ、どうぞ、一緒に勉強
しましょう」と答えます。

するとそこに私とその人とのあいだに友情関係が生まれる
わけですね。なぜなら、私はパーリー語を喋るという能力
を持っている。その能力を他の人が共有するわけです。

同じように英語に堪能な人がいて、アメリカに旅行に
出掛けた人がたまたまその英語に堪能な人と知り合いに
なった。

自分は英語をまったく話せないのだが、その英語に
堪能な人が買い物にも、観光にも一緒に行ってくれて、
英語のできる能力でその人を助けてあげる。

それもその人の持っている能力を共用していることに
なるのです。そういう関係はお互いが仲良くするための
もっとも重要な条件が自然発生的にできてしまうのです。
コミュニケーションのいちばん自然な形ですね。


ところが、仏教で言うそういうもの惜しみ的な、
共用を拒否するような性格があれば友だちはできない。
一人もできない。みんな逃げていってしまうのです。

お釈迦さまは教えます。
友だちは頭数だけそろえて強引につくろうといっても
つくれるものではありませんよと。

友だちをつくろうとパーティを開いたところで、
あるいは喜ばせようと何かプレゼントをしたところで
友だちはできません。

美味しい料理を作ったりして親切におもてなしをしても、
されたほうはただ負担に感じるだけです。たとえば会社の
だれかと仲良くしたいからといって、高級レストランに
連れていって、

「きょうはわたしが奢りますから、十分召し上がってください」
と言って高いお金を払って食事をしたところで、相手は、
「こんなことをしてもらったら、わたしにはお返しができません」
と言うことになったり、

「あっ、こまってしまうなあ。これからはおつき合いをするのも
断ることにしよう」ということになってしまうのがオチなのです。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
我が家の老犬
の独占欲は、一本の木切れです。

マハトマガンジーの独占欲というか持ち物は
三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)の置物と
一枚の布切れだった。

わたしの独占欲は、山のような本と、
3台のパソコンと、車と・・・・・

托鉢僧のように念誦と鉢だけとはいかないです。

2006/12/26(Tue) 10:24 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
低次の自我と高次の自我
 独占欲は、利己心、つまり低次元の自我からくるじゃ。この低次の自我は、人類の進化には必要悪だったじゃ。なぜなら、この自我のお蔭で、人類は民族の手足という奴隷、つまり血縁関係から離れ、自由になれたからじゃ。

 かつては、民族の長だけが、このような低次の自我をもてた。長以外は、例えば、手足が脳の指令で動くが如く、人民は民族長に所属していたじゃ。それが国家となったじゃ。

 人類は自然を開拓し、物質化していくうちに、民族長から離れ、独占欲が生じてきたじゃ。やがて、他民族と戦争を起し、死に目覚めるじゃ。独占欲のないそれまでは、死を意識しなかったじゃ。なぜなら、民族長の命に従っただけで、肉体を失えば、民族長の魂と一体化できるという信仰心があったからじゃ。

 酒は、このような信仰心を変化させ、独占欲に目覚めさせるものじょ。血のなかにアルコールが入ることにより、保存欲が生まれ、独占欲が生じ、民族長から独立し、戦争を通して、死に目覚める人類の進化がはじまったじゃ。

 そして、現代人のように一人一人が、独占欲をもつ自我、個人的名前で呼ばれるようになったわけじゃ、かつては、民族の長しか名称を名乗れなかったじゃ。民族の長しか独占欲がないからじゃ。いまの動物は、これと同じじょ。

 しかし、この低次の自我はまだ幼児の段階じゃ。オギャーと生まれたての赤子の自我と同じじゃ。一人一人が今度は、この低次の自我を、高次のものと育てなければいかんじょ。

 血縁から離れ、一人一人が自主的にお互いを愛する自由をもつために、自我は、個人に分離したじゃ。血縁の愛を離れ、自由に血縁によらない真実の愛を求めるために、自我は自由になったじゃ。

 民族間の闘争をなくし、個人間の闘争をなくし、低次元の独占欲をなくし、愛によって共生することを学ぶために、自我は分離したじゃ。そして新しき友の概念が生まれたじゃ。共に真実に向かって愛し合う関係じょ。

 しかし、日本人は懐古主義が多すぎるじゃ。昔を懐かしむよりも、未来にいかにあるべきかを問うべきじゃ。私利私欲など、懐古主義の最たるものであるぞ!進化を知らないウツケものぞ!
2006/12/25(Mon) 12:26 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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