碌々(ろくろく)ブログ

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人間関係で失敗する理由

A・スマナサーラ著「運命がどんどん好転する」慈悲喜捨の瞑想法 国書刊行会より(15)


いったい友だちは何人いればいいのだろうか?
一人か二人か、それとも十人だろうか五十人だろうか?

こういう考えもまた友だちをつくる資格がないと
言わざるを得ません。

そういう人が、「私には友だちが一人もいません、
淋しくて仕方ない、話し相手がいないのです。
結婚しているのだけれども旦那さんはぜんぜん話し相手
になってくれないし、

子どももいるのだけれども、
子どももぜんぜん口を利いてくれないのです。
いったいどうしたらいいのでしょう?」


と不満をもらしたところで、
「ではだれか賢い宗教家にお祈りをしてもらいましょうか」
というわけにはいかないのです。

こういう人は自分の心にエネルギーがないのです。
他人が自分から逃げていく、
自分の周りに来てくれないというのは、

自分の心のエネルギーが人を遠ざける波動を
放出しているということになります。

自分の心から出すエネルギーで人を拒絶するというのか、
拒否するエネルギーを出しているということなのです。
そのエネルギーにぶつかって相手は逃げ出すのです。

分かりやすい比喩を使えば、ここにまったくお風呂に
入らない人がいたとしましょう。

お風呂に入らないのですから、身体は汚れているし、
髪の毛も洗わないからその人の身体からは嫌な臭気が
出ています。

そういう人に対するとき我々はどうしたらいいでしょう。
ふつうなら町で出会っても、「いやあ、お久しぶりです」
とおもわず抱きしめたくなるような挨拶を交わしたくなる
ところですが、

その臭気に挨拶を交わすどころか、
たとえその人が親戚の人でも、そんな人は知りません、
と言ってその場からすぐにでも逃げ出したくなる。

つまりその風呂にも入らない人というのは、
汚い、臭い、不潔だという相手が不快と感ずる
エネルギーを放出しているからです。

この例で言えば、嫌われるポイントはただ清潔でない
というだけの理由に過ぎませんが、心から放出される
エネルギーはそんな単純な問題では済まされません。

自分の心から出るエネルギーが悪いエネルギーで
あった場合、そのエネルギーを受取る相手の心は、
先ほどの臭気に逃げ出したと同じようにこちらの
心もまた拒絶の態勢に入ってしまうのです。

それは気持ちの悪いエネルギーですから、
拒否すべきエネルギーとして相手もまた心の前に
シャッターを下ろして受けつけないようになるのです。

そういう拒絶されるようなエネルギーを
放出しているかぎり、その人の心は
いつまでたってもひとりぼっちです。

家族はいても口を利いてくれないでしょう。
人を求めても近づいてくる人もいないのです。

すべては自分の心が出しているエネルギーが
原因で起こる現象なのです。
自分から人を拒絶しているのです。


次回につづく


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2006-12-21 | 人間関係 |  コメント : 5  |  tb : 0

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円成実性

すべての人の心の奥には、
完全な丸が「在る」とやまんばさんは
信じておられるようですが、

仏教の唯識では悟りの「完成されたもの」という意味を「円成実性」と表現しています。

完全な丸が「在る」ようです。


2006-12-21 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

血縁関係を超える

「根本に自由性、自立性がないとダメじゃ」
というのは今回のスマナサーラ長老お話で
よく分かりました。

それでキリスト教は友愛の精神を説くのですね。
そしてやまんばさんと同じく

「師弟の関係は血縁関係を超えた真実一路の上に築かれる」
という錬金術者の言葉には強く引かれるところであります。

「血縁関係を超える」ところに重要な意義があるだと思います。


2006-12-21 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

いいですねえ^^。

「師弟の関係は血縁関係を超えた真実一路(^^、この表現。錬金術者のお人柄が感じられて、おもわず、微笑みました。大変気に入りました)の上に築かれる愛の土台ぞえ。」いいですねえ。聖書の中に「私のもとにきても自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まぬなら、私の弟子にはなれない。」長い間謎でしたが、今頃は、すこし、わかるように思えます。そのしがらみを越えたところ、役目から、開放されたところにはじめて愛が姿を現すようにに思えます。すべての人の心の奥には、完全な丸が「在る」とやまんばは信じている。自分も人も、口ではいろんなことを言ってはいるけど、やまんばは、懸命にそこから、目を離さない。だから、人を、悪く言ってはいけないし、自分をむやみに卑下することもいけないと思うのです。生きるということは、その丸を見つけ出し、ピカピカに磨いていく作業かもしれない・・。やまんばはコメントを書きながら、思うのです。

2006-12-21 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

モノに囚われてはいかんぞな

 友人らしきものがあり、子供らしきものがあり、夫らしきもの、妻らしきもの等、外見的体裁がいくらあったとしても、その対象に愛を注げない自分がいるだけで、ただ虚しいだけぞな。
 この世のものは愛情を注ぐ仮の対象であるぞよ。未来は、その対象にどれだけ愛を注いだかで現実化されるじゃ。だから、キリストは愛がなければ、何事も虚しいだけで無意味と説いたじゃ。
 現実世界に埋没しているだけでは、自分に与えてくれることを望んでいるだけで、自分から与えることを忘れている態度といえるじょ。
 愛情は受け取るものではなく、相手に捧げることであるじょ。相手に愛情を与えると、それは宇宙に伝わり、宇宙から、愛情を与えた存在を祝福してくれるじゃ。逆に愛情を受け取ると、宇宙から阻害され、宇宙から分離されてしまうじゃ。受け取った分の倍にして返さないと、宇宙に負債が貯まるだけじゃ。
 物質世界は、適度なカネがないと生きられないように、宇宙では、それを超える愛情の経済が成り立っているじゃ。負債ばかしつくっていると、愛の交流でなりたつ宇宙に孔ができてしまうじゃ。もはや、光が通過しない暗黒の暗闇の孔であるぞ。

2006-12-21 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

師弟関係は真の友情から

 キリスト教では、友情と愛情を合わせて友愛の精神を説くじょ。友という概念は、人類にとっては非常に新しき概念で、根本に自由性、自立性がないとダメじゃき。

 友情がなぜ新しい概念かというと、人類は血縁関係に縛られているからじゃ。血縁関係を断ち切ってこそ、友情が芽生えるじゃ。垢の他人に心魂を注げる存在となってはじめて友人となれるぞな。

 だからして、キリストは、血縁関係を捨てないものは、真実の師弟の道を歩むことができないと言ったぞな。仏教にも、出家という概念があるが、これは血縁を断つことを意味するじゃ。

 では、血縁関係を粗末にし、父、母を見捨てることかと誤解、曲解されるが、そうではなくて、血縁を超えて、人類全てを大切に思うことにあるじゃ。血縁関係は、その初歩段階にすぎんじゃ。
 
 「三つ子の魂百まで」というように幼児教育がいかに大切であるといっても、幼児のままでいいという意味ではないじゃ。幼児教育が大切なのは、健全で善良な大人になるために、「鉄は熱いうちに打て」ということじゃ。

 つまりは、血縁関係を超えるほどの愛情を友情に結びつけなさいということじょ。家庭も愛し、周囲の人も愛し、社会も愛す、是が基本ぞな。

 師弟の関係は血縁関係を超えた真実一路の上に築かれる愛の土台ぞえ。

2006-12-21 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

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