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2006年08月29日 (火) | Edit |
嵐山光三郎著「徒然草の知恵」ダイヤモンド社より(6)


ーー思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、
ありがたき不思議なり

ー思いがけないのは死の時期である。
きょうまで死をのがれて来たというのは、
じつに珍しくて不思議なことである   〈第一三七段〉


ーー暫しも世をのどかに思いなんや

ーほんのわずかでも、人生をのんびりと考えることが
できようか              〈第一三七段〉


これは、桟敷の前を行き来する大勢の人を見ていて、
その中に見知った人が何人もいたので、
世の中の人の数はそんなに多くはないのだなと
兼好が思った感慨の一説である。

その人たちがみな死んでしまったあとに、
最後に自分が死ぬとしても、それはそんなに
先のことではないと兼好は思うのだ。

たとえば、大きな入れ物に水を入れて、
細い穴をあけておけば、水がしたたることはなくても、
絶え間なく漏っていたらすぐになくなるに違いない。

そう考えていけば、世の中にたくさんの人がいても、
誰も死なない日はあるはずがないのだから、
年が若いとか体が丈夫だということと関係なく、

思いがけないときに死はやってくるのだと
兼好はいっているのである。


こうして、兼好は世の無常を語るのだが、
それに対応する人間の道は、
前出の次の言葉なのである。

「暫しも世をのどかに思いなんや」

死は、いつ突然に襲ってくるかわからないからこそ、
しばらくでも人生をのんきに考えてはいけないと
語るのである。

ここで初めて、兼好の無常観に、現実的な道が
与えられることになる。

無常なのだから、
その中に溺れてしまえというのではなく、
いまこの一瞬を大切に生きろというのである。

これが、兼好のもつ現代に通じるシビアさである。

世は無常だと嘆くだけの人生観であったら、
『徒然草』は単なる厭世の書でしかなく、長く現代に
至るまで読みつがれることはなかったであろう。

無常という、冷酷な現実認識、はかない美学を根底に
おきつつ、現在に果敢に立ち向かっていくところに
『徒然草』の底知れぬ奥深さ、したたかさがあると
いえるだろう。

それではいったい、現在に生きるとは
どういうことなのか。


次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
そうなんです。

わたしは今回、自分のことを
錬金術師ではないかと
思ってしまいました。^^

でも食べないでも生きられるかもしれない
というのは、とても衝撃的です。


2006/08/30(Wed) 10:16 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ろくろくさまも錬金術師ですね
流石です。
2006/08/30(Wed) 08:37 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
不食の聖女テレーゼ
テレーゼは1898年に生まれた。
20歳のとき不慮の災難に遭い、
そのため失明し、全身不随になった。
熱烈な祈りを捧げた結果、奇跡的に視力を回復し、
その後手足も一瞬にして癒された。

1923年以来、テレーゼは毎日、
祭壇に供えた聖餅の小さな一片をのみ込む以外は、
食べ物を完全に断ってしまった。

協会の許可の下に、テレーゼはこれまでに数回、
綿密な科学的検査を受けた。
ドイツ・プロテスタント新聞の主筆フリッツ・ゲーリック博士は「カトリックの詐術をあばいてみせる」と、
テレーゼのもとに出掛けていったが、
かえってすっかり感動して、
彼女の伝記を書くようになっている。


こうした記事を知っていた『あるヨギの自叙伝』の著者
であるヨガナンダ(インド政府は顔写真の記念切手を発行してその偉業を讃えている)は、
彼女を訪ね、そのときの様子を書き残した。

テレーゼは、いとも優しい握手で私を迎えてくれた。
われわれは互いに目を見交わしながら、
神を愛する者どうしの心の通い合いを覚えてほほえんだ。
(略)

「あなたは何も召し上がらないそうですね?」
私はこの答えを彼女自身の口から聞きたかった。

「はい、毎朝6時に祭壇に供えた聖餅をいただくほかは何も食べません」
「その聖餅はどれくらいの大きさなのですか?」

「銅貨くらいの大きさで、紙のように薄いものです」
彼女はこう答えると付け加えた。「
私はそれを聖餐の意味でいただくのでございます。
祭壇に供えたものでなければ、のみ込むことができないのです」

「もちろんあなたは、12年もの間、それで命をつないできたわけではありませんね?」
「はい、私は神様の光で生きているのでございます」
 なんと明快な答えであろう! なんとアインシュタイン的言葉であろう!

「あなたは、生命のエネルギーが、
エーテルや太陽や空気からからだの中に注ぎ込まれていることを知っておられるのですね?」

 ほほえみが彼女の顔をほころばせた。
「私がどうして生きているのかわかってくださって、
ほんとうにうれしうございます」

「あなたの神にささげられたご生涯は、
キリストがおっしゃった『人はパンだけで生きるものではなく、
神の口から出る一つ一つのコトバによって生きるのである』
という真理を毎日実証するものですね」

 この説明に、彼女は再び大きな喜びを表した。
「ほんとうにそのとおりでございます。
私が今日この世にこうして生きている理由の一つは、
食べ物によらず見えない神の光によって生きられることを証明するためでございます」

「あなたは食べ物をとらずに生きる方法を人に教えることができますか?」
 彼女はやや驚いたようすを見せながら言った。
「いいえ、それはできません。神様がお望みになりませんから」。


さらにもう1人の断食50年の女ヨギ(ヨガの行者)についてこう書いている。彼女名前はギリバラという。

「ママ様、どうぞあなたご自身の口から聞かせてください。あなたは、実際何も食べずに生きていらっしゃるのですか?」
「そのとおりでございます」彼女はしばらく沈黙していた。次の言葉で、このとき彼女が頭の中で計算していたことがわかった。「私は、12歳4カ月の時から68歳の今に至るまで、つまり56年以上の間、食べ物も飲み物もいっさい口にしておりません」
「食べたいと感じたことはないのですか?」
「食べたいと感じたら、食べなければならなかったでしょう」彼女はいともあっさりと、この明白な真理を言ってのけた。――毎日三度の食事に追いかけられている世の人々が身につまされている真理を。
「でもあなたは、何かを食べていらっしゃるのですよ」私はやや異議を唱えるように言った。
「もちろんですとも」彼女はすぐに私の言った意味を理解してほほえんだ。(略)
「ママ様」私は尋ねた。「世のほかの人々にも、食べずに生きられる方法を教えてあげたらいかがですか?」
 世界中の何百万という飢えた人々のためにいだいた私の野心的な希望は、即座に否定されてしまった。
「それはできません」彼女は首を振った。「私は先生から、この秘密を漏らすことを固く禁じられております。創造に関する神様のご計画にむやみに干渉することは、先生のお望みにならないことでございます。もし私が、食べずに生きる方法を人々に教えたら、お百姓たちはさぞ私を恨むことでしょうし、おいしい果物も、地面に落ちてむだに腐るばかりです。不幸や、飢えや、病気は、私たちに人生の真の意義を探求させるための、カルマのむちではないでしょうか」
「ママ様」私はおもむろに言った。「では、あなただけが何も食べずに生きてゆけるよう選ばれたのは、何のためでしょうか?」
「人間が霊であることを証明するためでございます」彼女の顔は英知で輝いていた。「人間は、霊的に向上するにつれて、しだいに、食べ物ではなく“永遠の光”によって生きられるようになるということを証明するためでございます」

(ろくろく) 錬金術者さん非常に興味深い記事ありがとうございます。

食べないで生きることは可能なのでしょうか?
わたしは、可能だと思います。


2006/08/29(Tue) 17:36 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
人はパンのみに生きるにあらず
 グルジェフに凝っている昨今なのですが、死というものは何処からくるのでしょう? 私は、「食物を食べなければ生きられない」という知識からくるのだと思います。
 確かに、食物から栄養を得て、人体内の細胞は日々移り変わるために活動をし、その糧を得ていますが、昨今の生命科学でいえば、タンパク質の情報だけで、細胞は活動できることがわかっているのですから、食物の代わりに、タンパク質で刺激を与えてやればいいのですし、昨今の脳科学では、そのタンパク質刺激情報の元々は、脳の情報からくると解釈されているので、脳のなかの元になる刺激情報を、万遍なく、DNAもしくはRNAという塊の情報ツールで、入力してやれば、何も食物から消化せずともよいような話になっているわけです。
 だから、最先端の科学では、人はパンのみに生きるにあらずという以上に、人はパンで生きるのではないともいえてしまうわけです。にも、関わらず、人間は食物を食べなければ死んでしまうと当たり前のように信仰されています。確かに、身体にも習慣があって、食物を消化するべき免疫やその抗体ができているので、いきなし、食物を抜くと、その抗体の仕事がなくなって、他のことをし始めて、破壊的に作用し、自己免疫疾患になってしまうことも考えられます。習慣とは恐ろしいですが、だから、いきなしではなくて、徐々に抜けばいいのですが…。
 グルジェフは、このような食物以外に、呼吸による空気や感覚器から脳に与える印象も、一種の食物と同じものだとしました。
 食を抜いても、1~2日は持ちますが、呼吸しなければ、たちまち死んでしまいますし、更には、感覚器から脳に何も刺激を与えなければ、恐らく、瞬時に死んでしまうと考えられます。
 このことから、人間にとっては、脳の食物である、印象(イメージ)が最も大切だということがわかります。
 キリストが言ったことも、実は、このことで、人はパンで生きるのではなくて、「日々、人が生きるためには、自然から与えられる善良な印象(イメージ)が、最も重要なのですよ」ということなのです。
 その善良なイメージとは、人間がいかに自然と協調し、真剣になって、活動するかにかかってくるわけです。
 そのような印象の食物は、人間のなかに、記憶を形成し、他の人と、共有できるものです。肉体は死んでも、その記憶を辿ることによって、死んだ人の印象(イメージ)を思い浮かべることができます。そして、生きる糧を与えてくれる。これこそ、キリストがいった真の永遠に費えることのないパンなのです。
 この記憶のパンは、肉体が消えてもなくなることはなく、死後、再び再生するためのものなのです。このパンは、刺激から新たに、霊的な細胞を構築し、霊的な人体を形成するものなのです。
 物質はネガで、この人体はポジのようなものです。少しでも物質的濁り(闇)があると、光により構築できません。復活とはこの意味なのです。
2006/08/29(Tue) 15:11 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
まわりのみんなが死んでしまって
最後に自分が死ぬとしても、

それはそんなに
先のことではないのにね~え

思いがけないときに
死はやってくるのだろうにね~

なんという能天気、
きょう一日生きてればいいのだ~。




2006/08/29(Tue) 14:50 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
いま、ここ
あるのは
何百億の昔から
千億光のかなたの未来までも
ひとつらなりの
いまだけなんですよね

それをおもうと
なんだかとてもふしぎです

あしたは
いつまで待っても来ることは
ないんだ

あるのは
ひとつらなりの
いまだけなんですから

2006/08/29(Tue) 14:41 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
今朝の電話
少し、早めの電話がなった。身近な人の死を知らせる電話でした。今年の春の検査では、異常がみつからず、夏に体の異変を感じたときには、すでに癌が全身に転移していたという。やまんばがとてもお世話になった方でした。先日のお見舞いの際は、「不思議となんにも、執着がなくなったのよ」すがすがしい顔で話された。あれから、幾日もたってはいない。明日は葬儀に参列しよう。神、ともにいまして、ゆく道を守り・・・また、会う日まで、また会う日まで・・と、歌って、お見送りしてこよう。
2006/08/29(Tue) 13:43 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
人智をこえて。。。
おはようございます☆

今を十分に生きなければ、潔く死ぬこともできないんでしょうね。。

『明日のことをおもいわずらうな』。。。名言だと思いますわ。。
過去に囚われたり、先の先まで考えたところで、どうしようもないことの方が多いですし(まさに、人智をこえていていて)、いたずらに悩むだけですし、それより、今、今、今、やるべき事がありますものね☆

2006/08/29(Tue) 12:03 | URL  | マリア #-[ 編集]
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