2006年08月24日 (木) | Edit |
嵐山光三郎著「徒然草の知恵」ダイヤモンド社より(1)


兼好は、『徒然草』で、
無常についてくりかえし語っている。

『徒然草』全篇を通貫しているテーマが無常なのである。
「われわれの人生は、いつも死と隣り合わせである」

この、ともすれば現代では忘れられがちな事実を、
兼好は幾度もくりかえす。

彼が生きた戦乱につぐ戦乱の時代を考えれば、
それは当然のことだろうが、
「無常」は現代のわれわれにとっても
まったく同じ現実なのである。


無常というのは、
ひと言でいえば、
死ということだ。

死、あるいは死期。
元来は仏教用語であり、
日本人の心に深くしみこんだ考え方である。

とくに、中世では、
無常というものが逆に価値観にもなり、
美学にもなっていた。

「すべてのものは変化し、
しばらくの間も変わらずにはいない」

という意味になる。
「無常変易(へんやく)」(九十一段)である。

兼好は、あるときは花に譬えながら、
この無常というものについて語り続ける。

現代のわれわれに対して、
「まず、この世が無常であることを悟れ」
と時代の闇の奥から教えてくれているようである。


ーー人は、ただ、無情の、身に迫りぬる事を
心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり

ー人間は、ひたすら、死が自分の身に迫っていることを
心にしっかりとどめて、一瞬たりとも忘れてはならない
〈第四十九段〉


ーー命は人を待つものかは

ー命は、人の願いがかなうことを待ってはくれない
〈第五十九段〉


どんなに権力を握っているものでも、
いつかはかならず滅びてしまうという、
人生の諦観につながるのである。

しかし、だからといって兼好は、
「どうせ死ぬんだからあきらめなさい」
といっているのではない。

ここのところを勘違いして、
「出世して部長になったところでなんになろうか、
この世は無常だ」

などと悟ったような顔をしていたのでは、
部長どころか、課長にも係長にもなれない。
一生、ダメなサラリーマンで終わってしまう。

兼好のいう無常というのは、
「だからいまを、精一杯生きなさい」
というところにつながってくるのである。

『徒然草』は、常に、相反する二つの立場を
認めているところにその真骨頂がある。


次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
末那識

自分が、無常でありながら、なぜ、
過去の自分と自己同一視し、
常であると感じることができるのでしょうか?

仏教の「唯識」ではそれは末那識(マナ識)が
あるからだといいます。

唯識では表層の心が眼耳鼻舌身意の6つ。即ち、
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識

深層にある心が2つ。
一つは末那識(まなしき)、
もう一つが阿頼耶識(あらやしき)と言い、
全部で八識あると考えています。


その中の末那識が自分を主張し続けているというのです。

末那識の、マナはサンスクリット語の"思量する"
と言う意味の『マナス』が語源となっていて、
自分の得になること、自分を大切に思い量る心が
末那識・マナ識です。

無意識のうちに自分に執着している喩えとして、
集合写真を貰った時の行動がよく話されます。

集合写真を貰ったら、
誰でも先ずは自分がどう写っているかを確認します。
これは、学校のクラス写真でも、家族写真でも、
或いは恋人とのツーショットでも同じでしょう。

これは、無意識のうちに末那識の働きが行動に
表れている端的な例。

唯識では、私達の総ての行動に同じ様に末那識が
働いていると考えています。



2006/08/25(Fri) 09:49 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
春日の局
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80

辞世の句「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」の

「今日ぞ火宅を逃れけるかな」
というところがなんともろくろく好みです。

煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、
火炎に包まれた家にたとえた火宅(かたく)。

今日、やっとのがれることができる。


よい句をありがとうございます。

2006/08/25(Fri) 09:05 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
無常の命の対極の永遠の命とは
 無常の人生のほんの一時に、何億もの生命体が共存しています。同じ一時、時間を送りながら、その観点は、まさに人それぞれです。無常の現象を目の当たりにし、苦痛を感じるか、それとも感謝を感じるか、悲しみか、あるいは喜びを感じるか、それは気持ち次第です。
 雷に驚かされ、命の大切さを実感する人もいれば、何気ない退屈な日常に、不安や恐怖を催す人もいます。同時に同じ現象を体験していても、立場により、個性により、その感じ方は十人十色です。
 同時に十人十色全てを味わうことはできません。なぜなら、そこに、自分があるからです。しかし、その自分は、次の瞬間、そのときの感じ方で変わってしまいます。いつまでも、過去と同じような自分でいることはできません。自分自体も無常の存在です。
 その自分が、無常でありながら、なぜ、過去の自分と自己同一視し、常であると感じることができるのでしょうか?
 その自分が何かに向かって生きているからであり、自ら、かくありたいと思っているからであり、自分らしい何かを持っているからであり、そして、自分という人生を生きる意味を見い出したいと魂の底から祈り願っているからに違いありません。
 我々は、皆、自分という人生を体験する目的で生きているのでしょう。錬金術者は、錬金術者の生き方(作品)をつくりあげようとして生きています。無常のなかから、常あるもの(有形なもの)を拵えています。生きることとは自然なことです。
2006/08/24(Thu) 15:15 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
おはようございます☆

日本人は、昔から無常とかもののあわれに、ことに敏感ですよね。。
特に、辞世の句に心惹かれてしまいます。(違うところでも書きましたが)なかでも春日の局の辞世の句
「西に入り 月を誘い 法をえて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」にはジーンと来る物がありますわ。
まさに、この世の無常をイヤと言うほど味わい尽くした波乱万丈の人生ゆえに。。。


2006/08/24(Thu) 13:48 | URL  | マリア #-[ 編集]
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