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2006年07月20日 (木) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(8)


意識は機能だということは、
強調しておくべきであろう。

意識はなにかの実体だという
感じがふつうするからである。

自我も意識だから、はたらきのはずだが、
実体に近いものと感じている人が
多いのではないか。

というより、
ふつうは実体だと信じられている。


「意識が実在する」という感覚は、
きわめて強いからである。
それが自我に強い実在感を与える。

欧米では、社会がそれを増幅する。

念のためだが、
あれだけ「個を主張する」アメリカ人でも、
神経科学者のなかには、「自我なんてない」
と考える人が増えてきている。

その根拠は、脳機能が意識に先行する例が
知られるようになったからである。

たとえば、水を飲もうと「思って」、
コップのほうに手を出すとする。

じつはそう「思う」0.5秒前に、
「水を飲む」行動に対して、
脳はすでに動き出している。

いまではそうした測定が可能になった。
それなら「水を飲もう」という意識は、
「無意識である」脳機能の後追いなのである。

意識は「自分が水を飲もうと思ったから」、
「その思いがコップに向かって手を出させる」
と「思っている」。それは逆である。

心理学では、「悲しいから泣くのではない、
泣くから悲しいのだ」ということがある。

常識的な意識は「そんなバカな」と思うだろうが、
じつはその「常識的な意識」のほうが、
たぶんウソなのである。


脳の状況から意識が生じるというのは、
日常的な経験からも当然であろう。

結婚を申し込むときに、
ムードを考えて、
さまざまな工夫を凝らす。

ムードというのはつまり、
脳の状態を上手に操ろうとする、
経験的手段なのである。

商談を成立させるには、
一緒に酒を呑んだり、ゴルフをしたり、
中華料理のように円卓を囲んで
食事をしたりする。

つまりなんとかして
「自分にとって都合のよい意識状態を、
相手の脳に生じさせようとする」わけである。


そういうわけで、自我を主体であり、
実体であると考えるのは、
所詮無理である。

ただし文化的伝統は抜きがたいもので、
欧米人あるいは近代人がどこまでその点で
意見を変えるか、私は楽観していない。


次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
いやいや、やまんばさまが賢いのです
ああだここだと言っている自分が愚かしく思うことが多々あります。所詮、皆同じ人間なのですから。
2006/07/22(Sat) 08:46 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
うあ~ん、やまんばの出る番がないよ~***
二人とも、頭がよすぎるよ~。えっ、お前が悪すぎるる?そうだね、グスン。でも、真実に至るまでには、いろんな考えがあるんだね。やまんばは焦らない。いつも大きな力がみんなを平等に守ってくださっていることを知っているから。^^
2006/07/21(Fri) 10:13 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
ろくろくさまのおっしゃることはわかりますが
 恐らく、養老さんは、無我を書いているのではなく、自我自体が、存在しないといっているんだと私は解釈しました。それでは自我とは何なのか?神経科学者は、ニューラルネットの形成の仕方等であくまで脳に関連づけ帰納して説明するでしょうが、その観点から書くことは、無意味で、出鱈目に近いです。近年の科学者の自己中心的な悪い面がみられます。
 養老さんよりもろくろくさまが、語られた方が真実に近いと思います。

「自分にとって都合のよい意識状態を、相手の脳に生じさせようとする」
 という自分とは一体脳のどの部分を指すのか?意味不明です。

 自分とは脳ではなくて、魂のことなのですから。脳から精神が生まれることはありえません。だったら、脳以外の臓器は何のためにあるのでしょうか?
 意識は魂から発され、魂には意識を超える部分、無意識、意識部分の3つにわかれるといわれています。キリスト教では、それを聖霊領域、子(ロゴス)領域、父領域と呼んでいるようです。

 現在の覚醒意識、つまり聖霊領域を超えて、父の領域までいくと、人間は神的な存在になるといわれています。いまはただそれを語れるだけで、実現には程遠い状態です。まずは科学が、生命的、生命存在を理解できるまでに改善されないとダメです。
 キリストが語ったように、この時代に証(シルシ)は得られないのです。ただひたすら忍耐強く待つしかないです。
2006/07/21(Fri) 09:12 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
錬金術者さん
かなり勘違いされていると思われます。

東洋思想ではもう2千年以上も前から
「無我」だといっています。

やっとここにきて
あれだけ「個を主張する」アメリカ人でさえも、
神経科学者のなかには、「自我なんてない」
と考える人が増えてきている。

という意味です。

脳が意識よりも先にあるというより
無意識が意識よりも先にあるのです。

それは何千年も前から瑜伽行者などが体験的に
つかんでいたわけで、最近になってやっと
少数のアメリカ人が理解できるようになった。

錬金術者さんに無責任主義といわれようが、いわれまいが
人類は無始より無我で通しているのです。

2006/07/20(Thu) 16:50 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
科学が進展すればするほど
自我は存在しなくなるだろう。なぜなら、科学というのは、機能を探り、それに当てはめていくものだからである。人間は社会に当てはめられ、社会の権威に虜にされ、飼いならされ、社会の知的複合体の一部となるだろう。そのとき、人間の自ら意志する心は失せ、ゴイム(獣)に堕落するだろう。これがヨハネの黙示録が説く人類の終末なのである。個人主義のアメリカ人だからこそ、科学的に自我がないのだと主張しえるのである。名目はどうあれ、とどのつまり、それは知的エゴイストに他ならない。エゴイストだからこそ、自我を隠さなければならない!自我こそがエゴイストを阻む馬鹿の壁だからであろう。
2006/07/20(Thu) 13:40 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
脳先行主義は卵と鶏の先行矛盾論に同じ
 卵が先か鶏が先か?、明快な答えはあるのだろうか? ここで言われるように、脳が意識よりも先にあるとするのなら、脳は何をもって思考しているのか解き明かすことはできない。脳が機能しているから思考しているのだという無責任主義に即するしかない。
 これでは、我々は進化をやめてしまい、生命は目的を失うだろう。脳が機能していなければ、それは死だからである。死とはそんなに陳腐なものなのか?それこそ馬鹿の壁、愚の骨頂に思える。
 脳先行主義における意識とは、人間の意志を取り違えている気がしてならない。これでは脳先行主義は、死ななければならないし、死ぬべきであろう。そうでなければ、真の死の意味を脳先行主義において解き明かすことなど土台無理な話である。
 脳に意志があるとするのならば、脳は脳自身をもって死を意志することになるだろう。人類は皆、脳によって自殺していることになる。
 いくらなんでも、「養老さん、それは言い過ぎってもんだよ!」といわざるをえないようだ!! 「まずはその思考を自分の脳で止めてみてくれ!」と私はいうだろう。
2006/07/20(Thu) 13:10 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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