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2006年07月10日 (月) | Edit |
花山勝友著「親鸞・悪人のすすめ」大和出版より(15)


人が仏になるためには煩悩を
取除かなければなりません。

われわれ人間のまわりを取り巻いている
欲望は数知れずあります。仏教でもこの煩悩を
いろいろな形で説いています。

除夜の鐘でも知られる一〇八煩悩という
分け方もありますし、
あるいは三毒の煩悩というのもあります。

これは、貪欲、瞋恚、愚痴のことです。
貪欲というのはむさぼりの心のことで、
瞋恚は怒りで、愚痴は愚かさを意味します。

要するに、この三つのものを出発点として、
さまざまな欲望が人間には必ずあるわけです。


それをひとつひとつ切り取っていくことによって、
内部にある仏性を導き出していけるわけです。

仏性というのは、仏教の考え方では、
「草木国土悉皆成仏、一切衆生悉有仏性」
などといいます。

あらゆる存在には仏になる可能性がある
という意味だと私は思っています。

英語でいえばポテンシャリティ、
潜在力と訳してもいいでしょう。


あらゆるものに仏になる可能性があるのに、
なぜ仏になれないのかというと、いまいった
ような煩悩がまわりを取り囲んでいるからだ
ということになります。

だったら、その煩悩を取除けばいいじゃないか、
となり、今度はその取り方が問題になってきます。

これには二つあり、
ゆっくりとひとつひとつ取っていく方法を
漸(ぜん)といいます。

漸次行いましょう、などという、あの漸で、
徐々にという意味です。

もうひとつは頓(とん)といって、
いわゆる座禅のようにスパッと、
いっぺんに取ろうとするやり方です。


即身といわれるように、
いっぺんに悟りを開くやり方と、
少しずつ悟りを開くやり方との、

その両方につまずきを感じたのが
親鸞だったと私は思っています。

漸も頓もない、
自分としては全部を誰かに
任せ切ってしまうより方法がない。

私の力では、
とうてい煩悩を取りようがない、
という果てに出てきたのが、

「絶対者による救済」
という道だったのではないか、
という気がして仕方ありません。

自己というものをとことん
追求していった結果、
私ほどの“悪人”はいないのではないか、
という自覚が芽生えます。

ですから、徹底的な自己反省の上に
立った人が親鸞という人だった、
と思っています。


自分みたいな悪いヤツはいない、
と口では簡単にいえるものです。
ところが、ひと皮めくれば、

腹の中では、あいつより少しはマシだよ、
いくらなんでもあんなヤツと比べてもらっちゃ
困るよ、と思っているものです。

ところが、親鸞という人は、
その最後の最後まで自己追求をして、
やはり、自分のような悪いヤツはいない
ということに気がつき、

完全なる自己否定という最終点まで
到達した、と私は思っています。


次回につづく


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テーマ:哲学
ジャンル:学問・文化・芸術
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この記事へのコメント
赤い橋の下のぬるい水
今村昌平監督 男と女の奇妙な愛のファンタジー。
第54回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールに
ノミネートされ、観客からの絶賛を受けた。

赤い橋のたもとの家に住むサエコの体には
不思議な現象が起きる。

体内に水がたまると悪いことがしたくなり、
快感と共に水を放出するという。

陽介はサエコから水がたまったと知らせが入ると、
赤い橋の家に駆けつけるのだが・・・・・


人間はサエコのように体内になにかががたまると
悪いことがしたくなる存在なのかもしれません。

たまるものはゴミではないと思うのです。

善と悪も、美と醜も、神と悪魔も 
コインの裏表のように一体なのではないでしょうか
2006/07/10(Mon) 17:36 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
頓悟(とんご)
長期の修行を経ないで、一足とびに悟りを開くこと。

たしかに、てっとり早くていいかもしれません。
しかし、これは、好き嫌いの問題ではないです。

親鸞は頓悟をあきらめたのでした・・・・
2006/07/10(Mon) 15:16 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自分というゴミ
 誰しも自分のなかに利己心のようなゴミをもっています。自分という存在を失いたくない、自分は綺麗でいたいというような欲望、エゴのゴミです。私という執着心ともいいましょうか?
 自殺というのも、このような自分故のエゴが、自分の許容量を上回ってしまうようなものでしょう?自分の存在を自分で制御できなくなってしまうようなものでしょうね?
 人間誰しも、このような悪魔を、内にもっていると同時に、神様や仏様から戴いた清く美しい心も、もっています。
 清いのは濁りを捨てたから清いのであり、美しいのは醜いことを浄化したから美しいのでしょう。
 これと同じように、自分というのは他者があってこそ自分なのであり、自分が思っている自分ではないことなのです。
 自分ではない醜い自分が実際は自分であるかもしれません。過ちを正さずに、体験が辛いと思うときに、その自分が正体を現します。他者が嫌になるとき、実は自分を嫌になっているのです。
 ゴミは外になるのではなく、自分の内にあるのです。
 掃除をしていると気持ちがいいのは自分の気持ちも掃除されるからなのでしょうね?
2006/07/10(Mon) 14:13 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
やまんばは頓がいいな。
心のそうじをすぐにするといいのですね。気がついたら 頓  また気が付いたら 頓。それでも溜まれば年二回の大掃除。やまんばは、ごみやほこりが溜まると、そうじがおっくうになるから、小まめにやらねばなりません。ところで、ごみって、わいて出てるのでは?と疑うほどどんどん出てきますね。生きてるからごみが出る、ごみを出すために生きてる?
2006/07/10(Mon) 09:17 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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