2006年06月18日 (日) | Edit |
花山勝友著「親鸞・悪人のすすめ」大和出版より(2)


昭和二十年代の日本人の平均寿命は男女とも
二十歳代だったそです。

戦後の食べられない状態とチフスを初めとする
あらゆる伝染病、乳幼児の死亡率がものすごく
高かったからです。だとすると、

鎌倉時代の平均寿命はおそらく十歳代でしょう。
その時代に九十歳まで生きたのですから、
私の知人の九十歳の老人以上に
「ものすごく長く生きた」と客観的にはいえます。


その親鸞が、
老いに対する苦しみを述べています。
「目もかすんで候、もの覚えも悪くなって候」と。


ですから、どんな人でも老いに対する
恐怖心というのは、八十歳になろうが、
九十歳になろうが、

今後、医学がどんどん進んで百二十歳まで
生きられるようになろうが、同じことなのです。

おそらく親鸞も、目も、もの覚えも悪くなった、
でも今日は大丈夫、明日も大丈夫だろう、
という気持ちで生きていたのでしょう。

しかし、親鸞の場合、その老いや死の不安の中に、
喜びも同時にあったのではないだろうか、
という気がしてならないのです。


親鸞の言葉にこういうのがあります。
「いまだうまれざる安養の浄土は恋ひしからず候事」

まだ行ったことのないお浄土が、
どんなにいいところだとしても、
ひとつも恋しくはない、

といい切っているのです。

これがなかったら、私は親鸞についてはいきません。
やっぱり、この世がいいのです。

もし親鸞が、死んだらお浄土へ行ける、
いいところなのだから早くいっしょに行こう、
というのであれば、私は、冗談じゃない、

行って帰ってきた人間などいないじゃないか、
そんなわけのわからないところに行くよりは、
しがみついてでも生きていたい、とそう思うでしょう。

ところが、まだ行ったことのないところは恋しくない、
と。ここに私は親鸞の人間性を見ています。

ただ、この言葉はこれで終わりではないのです。
そのあとがさらに心に響きます。

「なごりをしくさふらえへども、
娑婆の縁つきてちからなくしておはるときに、
かの土へまゐるべきなり」

どんなにこの世がすばらしく、死にたくない、
なごりおしいと思っても、この世との縁は
百パーセントの人間が尽きてしまうのです。

それが人間としてこの世に生まれてきた者の
運命なのです。尽きたときは、
いさぎよく浄土へ行こう。ということです。


有名なお坊さんで、ガンにかかり、あと半年だといわれ、
「わしゃ死にとうない」
といった人がいます。

私は、それが本当だと思うのです。
人間これでいいと思います。

その代わり、死ぬときは浄土に行けると信じておれば、
ずいぶん往生際が違うのではないかという気がします。


般若心経でいう空(くう)は、いってみれば不生不滅です。
人間なんて最初からあったわけでもない、
ないわけでもない。仮に和合してひとつの物体を
つくった、と。

しかし、これがいくら頭でわかっても、
「自分というひとつの意識を持った物体が、
生まれてから死ぬまで継続して、仮に存在している」
ということだけは事実なのです。

やはり、それが消えてしまうことに対する苦しみは
残ります。その残る苦しみを、
私は親鸞の言葉で解決しているつもりです。

・・・・・・
信仰が強ければ強いほど、阿弥陀仏の本願の力によって
浄土に生まれさせていただけると思うほどに、

安心感というよりも、
むしろ苦しみを喜びに変えることが
できるのではないかと思うのです。


次回につづく


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テーマ:哲学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
人と違って当たり前なのは
個々人の肉体ですね。臓器移植してもハッキリ拒絶反応
を示しますから。

しかし、善、悪はどうでしょう。
各人がそれを受け入れられるかどうかは別にして

わたしたちが社会生活を気持ちよく営むには
客観的にちゃんとあるのが善、悪だとおもいます。


錬金術者さんの

「何が悪か、善きかは、
個人(自我)の発達(進化)度合いにより異なるので、
自分では善きことであっても、
他者に薦め、強制すべきものでは、決してありません。」

ではこまります。
2006/06/20(Tue) 10:52 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
45にも満たないのに
マリア さん

はじめまして、コメントありがとうございます。

まだお若いのに「早くお迎えが来て欲しいくらいです」
というのは、ほかになにか問題がおありのようですね。

寿命というのは、人の願いとは別のようです。

どうぞ引き続きよろしくお願いします。
2006/06/20(Tue) 10:23 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ある意味羨ましいですよね。90歳にもなってもまだ死にたくならない人生って。。。私なんかは反対に、早くお迎えが来て欲しいくらいです。45にも満たないのに。。。
2006/06/20(Tue) 05:16 | URL  | マリア #-[ 編集]
死をいかにとらえるか?
 生きていれば誰でもくる死の捉え方は千差万別といえるでしょうね? かのソクラテスは、死を死とも思わない態度で、毒ニンジンを飲み死んでいきました。かというと、死を荘厳な一大テーマとして死んでいく人もいます。
 色々な個人の死があるように、健康も十人十色だと、密教ではいわれています。現代人は、何事もドクマ(専制、権威主義)的で、皆の死や健康が一つだと思うふしがあります。
 しかし、人間の内面が皆、異なるように、死も健康も、人によって異なっていて不思議ではないのです。ただ、自分の死や健康を深くみつめていくことこそが、大切なのではないか?と思うのです。
 人と違って当たり前、だから、ある人に善きことも、他の人には悪きことになることもあるのです。だから、何が悪か、善きかは、個人(自我)の発達(進化)度合いにより異なるので、自分では善きことであっても、他者に薦め、強制すべきものでは、決してありません。
 親鸞は、恐らく、だから他者のなかに自分を委ねた、他力本願を説いたのでしょうね? お釈迦さまも、まず、質問者の自我の発達(進化)度合いに応じて、解答をしていたようです。
 何が善くて、何が悪いのかは、ご自身で探すしかないのです。それが本来、独立した存在なのです。お互いが、自分探しのために、他者と共同で、助け合ってるという感じなのでしょう?
 他者が教えるというものではなく、自らで、わかる(理解する)ということにならないと独立とはいえないでしょうね。悪人同士仲良くやりましょうということなのでしょう?
2006/06/19(Mon) 16:37 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
その柔らかな眼差しから
う~~ん

人は死んだら「柔らかな眼差し」になるのでしょうか。
戻ってこない人は、生前どんなことがあっても
許せるのでしょうかねえ~


立派だけの人なんているわけないのに・・・
なぜだか許せてるのです。
2006/06/19(Mon) 15:55 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
只管打坐の道元
只管打坐とは
「ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である」
だそうですね。


しかしながら生涯をかけて87巻(=75巻+12巻)
に及ぶ大著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)
を著したというのも、皮肉ですね。
2006/06/19(Mon) 15:46 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
親鸞さんが言いたかったことが本当にわかった人は、それを説明できないことにも気がついているのだと思います。たぶん。
そういうところが仏教の難しいところであり深いところなのだと思っております。
只管打坐の道元が大量の書物を記したのも
言葉で表せない仏道を言葉にするのに苦労したせいかと思っています。
2006/06/19(Mon) 14:19 | URL  | mitosama #hSCFVYi.[ 編集]
また会う日まで
やまんばの本箱の一角にやまんばの大切な亡くなった人々の写真が飾ってある。だんだんその数が増えてくる。やまんばがあちらの世界にゆく日まで、また会う日まで、、、、、。その柔らかな眼差しから、毎日生きる勇気が与えられている。
2006/06/19(Mon) 09:44 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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