2006年06月17日 (土) | Edit |
花山勝友著「親鸞・悪人のすすめ」大和出版より(1)


己の力の及ばざるを知り、
感謝の気持ちが
心に生まれた人を
悪人という・・・・・・・・花山勝友



あるとき、私にこういった実業界の人がいました。

「親鸞の教えというのはたいしたものだ。
人間の欲というものをあるがままに認めたのだから、
時を越えて欲望の時代である現代に生きていますな」
と。

こういうのを半可通というのでしょう。
親鸞は醜いエコノミック・アニマル、経済的動物を
すばらしいとは決していわないでしょう。


親鸞は確かに人間の欲望をあるがままに
認めたところに、素晴らしい価値がありますし、
一番の魅力もそこにあります。

ただし、あるがままに認めて、
それでいいとしたわけではありません。

その中で、人間性というものの醜さ
というものに気がついた
ということが重要なのです。

「人間というものは、この程度のものだ」
というふうに気がついたときに、
「ではどうすればいいのか」という
次のステップがでてきます。

その次のステップを踏み出していないのに、
ただ目の前の欲を満足させているだけなのが
現代人です。

親鸞の一番の特徴は、人間のありのままの姿を
認めた上で、しかも、
そこに深い自省があったことです。

・・・・・・
日本人の大部分が、経済的、物質的に満足しながら、
精神的苦悩を持っている。それゆえ、
ノイローゼが増える、精神病が増える、
麻薬に走るものが増える。

そういうものに対する答えを探すために、
仏教はなくてはならないものだという気がします。

その仏教の中でも、親鸞がたどった苦悩の道、
つまり、人間の欲望というものを率直に
認めたところから出発している教えは、

現代人がこれ以上みっともない存在に
ならないためにも、非常に参考になるような
気がして仕方ありません。


私がよくいう言葉に、「人間の死亡率は百パーセント
である」というのがあります。

私は医者ではありませんが、
これだけは絶対に間違いのない事実です。
厳粛な事実といってもいいでしょう。

しかし、ふだんはそのことから目をそむけています。
「少なくとも明日までは大丈夫」、
「来年までは大丈夫」と思って生きています。

そして、平均年齢くらい生きられれば充分だよ、
オレは六十歳でもいいよと、タカをくくっています。

しかし、人間、実際にその年にになれば、
あと一年、あと一年ということになるのが
ふつうです。

私はそういうことをみっともないとか、
だらしないなどとは思いません。
きわめて自然な人間の欲求だと思います。

おそらく親鸞も同じだったと思うのです。
いまからみれば、あの時代で九十歳まで生きた
親鸞はおばけです。


次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
深い自省
親鸞は、おのれの欲望というものを率直に 認め
しかも、 そこに深い自省があった。

深い自省の念を持つ人を「悪人」といったのです。

他人の悪ばかりを中傷、非難する「善人」よりも
「悪人」のほうが救われるといったのです。

この機会に「悪人正機説」を共に学んでいきましょう。


2006/06/18(Sun) 09:48 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
一番みえないのが自分
人のことはみえやすくて、ああでもない こうでもないと言えるけど、自分のことは、わかりにくい。自分が欲張りでけちで自己愛の塊なんて、やまんばは気がつくのにかなり時間がかかったよ(天使かと思っていたよ)神様はそれに気が付く機会を、人生のそこここにかならず用意されている。気がつくのが遅いほど痛みが激しいようです。自分の中に悪を見つけてからは、人にはだいぶん寛容になれたかな?神様の愛は深いから、まだまだ、その機会はおとずれることでしょう。ああこりゃたいへんだ。人に合うと自分がみえるから、やまんばは今朝も奥深い山の高い木の上で風に吹かれている。でもやまんばは、神様には勝てないからね。またそのうちお呼びがかかるでしょう。
2006/06/18(Sun) 07:51 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
悪人正機説は誤解されやすい?
「善人もて往生をとく、況や悪人を哉」という有名なものですよね? 親鸞は決して、悪人を賛美していたのではないでしょう。むしろ、どうしょうもない人間の愚かさを、いかに克服すべきかを主題としたのだと思います。
 これは、キリスト教の密教に通じる思想です。キリストは、善人のために救済にきたのではなく、悪人を救済にきたというのが、キリスト教神秘主義の基本理念です。
 ダビンチは、それを、最後の晩餐に示したのです。キリストと裏切り者の悪の代名詞のユダが、一緒に食すること。これがキリストの晩餐の意味です。
 本当の善は、悪を救うことなのです。悪を救わない善は善とはいえませんし、愛とはいえません。
 原罪を犯した悪人の人類を、救う為に、犠牲になり、わずかな師弟から善を生み、更にその善が、悪を救うことを願ったのです。
 善人になるとは、自分を捨てて、他の悪人を救う為になるのです。これが真の他力本願の意味だと思われます。
 現代人は、浅はかな知識を、利己主義のために、振り回す愚か者ばかりです。悪人を認める気などさらさらないのです。ただ、悪を体験せずして、遠ざけるなかれということです。悪を身をもって体験し、善に向かうのです。泥のなかに飛び込んでいき、自分から透明になり浄化させていく、奉仕の精神なのです。
 これがわかれば、親鸞から、仏陀の精神が導かれるでしょう?
2006/06/17(Sat) 16:56 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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