2017年02月01日 (水) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(9)


7 真実のグルの本性は、至高の主の本性であると言われて
いるのは、どのような意味なのでしょうか?

真実の知識の状態、あるいは神(イシュワラ)に至らんと願い、
つねに信仰に励んでいる人にとっては、その信仰が熟すと、
その人の内なる証人であり、その人自身と等しいものである
主がお現れになる。

主は、その弟子に祝福を与えんがために、慈悲深くも人間の姿
と名を帯びて現れ、主の三つの自然性であるサット-チット-
アーナンダ(存在-意識-至福)の助けを借りて、その人をして
彼自身の内に溶けこませるのである。

この原理によれば、グルは真実、主と呼ばれうるものである。

8 それでは、過去において何人かの偉大な人たちが、
グルなしで知識に到達したのはどういうわけでしょうか?

ごくわずかの機の熟した人々には、主は知識の光として輝き、
真理の目覚めを分かち与えてくださる


9 帰依(バクティ)究極は何でしょうか?またシッダーンタ
の道の究極とは何でしょうか?

すべての行為が清められた身体、言葉、心の三つの器官の助け
を借りて、非利己的な信仰によって行われ、主の召使いという
資格において主の働きとなる真理を学ぶこと、それが究極である。

それはまた「私が」および「私のもの」という感覚から、自由に
独立することでもある。このことは、シャイヴァ・シッダーティン
たちがパラーバクティ(至高の帰依)と呼ぶ真理であり、神に仕えて
生きる(イライ・パニ・ニッタル)と呼ぶ真理でもある。


10 知識(ジュニャーナ)の道、あるいはヴェーダーンタの道の
究極は何でしょうか?

それは「私」が主(イシュワラ)と異なるものではない、という
真理を知ることであり、「自分」がことをなしている(カルトゥリー
トヴァまたはアハンカーラ)という感覚から自由になることである。


11 帰依の道と知識の道の究極は同じものであると言われている
のは、どういうことでしょうか?

さまざまな言い方があるが、「私が」および「私のもの」という感覚
を壊滅させることが究極である。「私が」および「私のもの」の二つ
はお互いに依存し合っているので、一方を壊滅させればもう一方も
滅びる。

想いや言葉の彼方にあるあの静寂の状態に至るためには、
「私が」という感覚をぬぐい去る知識の道か、「私のもの」という
感覚をぬぐい去る帰依の道のいずれもじゅうぶんである。

帰依の道と知識の道の究極が一つであり、同じものであることは
疑う余地のないことである。

ノート――
「私が」が存在するかぎり、主もまた受入れられざるをえない。
人が、現在失われている至高の自己同一性(サーユジャー)を、
容易に回復しようと望むならば、彼はこの結論を受入れなければ
ならないということが、唯一の正当性である。


12 エゴの特徴はなんでしょうか?

「私」という姿の個体がエゴである。
知性(チット)の本性である自己は、
「私」という感覚をいささかも持たない。

生命のない物体もまた「私」という感覚を持たない。
知性と生命を持たぬ存在物の中間にある、惑わしのエゴの
不可思議な活動が根となって、これらのすべての困難を
もたらす。

いかなる方法にせよ、そのエゴが破壊されるなら、
真実に存在するものがあるがままに見られるであろう。
これが解脱(モクシャ)と呼ばれるものである。



次回につづく

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック