2016年11月01日 (火) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(7)


23 解脱を願う者にとって、本を読むことはどんな価値が
あるのでしょうか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねば
ならないと説いている。だから、すべての聖典の結論は、
心を静かに保つべしということである。

ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読み
続ける必要は何もない。心を静めるために、人はただ、
自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。

聖典を読むことによっては、この探究はできない。
人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。

自己は五つの覆い(五つの感覚機能、視覚、嗅覚、聴覚、
味覚、触覚)の内側にあるが、書物はその外にある。

自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって探究されるべき
ものだから、それを書物の中に求めることの愚かしさは、
言うまでもない。

やがて、彼が勉強したすべてのことを、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。


24 幸福とは何でしょうか?

幸福は、自己の本性そのものである。
幸福と自己は別のものではない。
世界のいかなる対象物の中にも幸福はない。

私たちは無知のゆえに、
対象物から幸福を得るものと思っている。
心が外に出てゆくとき、悲惨を味わう。

心の願いが満たされるときには、実は、心は自身の本来の
場所に戻っており、自己である幸福を楽しむのである。

同じように、眠りの状態、サマーディ(三昧)、失神状態、
あるいは願った対象物が得られたとき、嫌いな対象物が
消え去ったときには、心は内面に向かい、清らかな自己ー
幸福を楽しむのである。

心は、このように休むことなく動きまわり、
自己から外へさまよい出てはまた元の場所へ帰ってくる。
外では太陽が焼け焦げているが、木陰は気持ちがいい。

灼熱の太陽の中を歩いてきた人が、木陰に宿れば涼しいと
感じる。木陰からわざわざ太陽の下に出てゆき、また木陰
に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人は、ずっと
木陰に宿りつづけるだろう。

そのように、真理を知った人の心はブラフマンを離れない。
無知な心は、その反対に世界をさまよい歩いて悲惨を味わい、
つかの間の幸福を味わうたてにブラフマンに帰ってくる。

実際には、世界と呼ばれているものはただの想いである。
世界が消え去り、想いが消え去れば、心は幸福を経験する。
世界が現れると、悲惨の中を行く。


25 洞察力とはなんでしょうか?

静寂にあることが、洞察力と呼ばれているものである。
静寂にあるということは、心が自己に溶けていることである。

過去のできごとを知ったり、現在や未来のできごとを知る
テレパシーや千里眼のようなものは、洞察力ではない。


26 無欲と智慧にはどんな関係があるでしょうか?

無欲が智慧である。二つは別のものではない。
それは同じである。

無欲とは、心がどのような対象物に向かうことも差しひかえる
ことである。智慧とは対象物が現れないことを意味している。

別の言い方をすれば、自己以外の何ものも求めぬことが無執着、
あるいは無欲であり、自己をけっして離れないことが智慧である。


27 自己探究と瞑想の違いは何でしょうか?

自己探究とは、自己の内に心をとどめておくことである。
瞑想とは、自分の自我をブラフマン、つまり、存在ー意識ー至福
であると思いなすことである。


28 解脱とは何でしょうか?

束縛されている自我の本性に尋ね入り、
その真実の本性を悟ることが解脱である。



次回につづく
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