2016年10月01日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(6)


19 無執着とはどういうことでしょうか?

想いが起こったとき、その想いの根をあますところなく
完璧に消滅させてしまうこと、それが無執着である。

真珠採りは腰に石をしばりつけて
海の底に潜り、そこで真珠を採る。

私たちは無執着とともに自分自身の内に潜り、
自己という真珠を手に入れなければならない。

20 神および師(グル)は、魂の解脱をもたらすことは
できないのでしょうか?



神および師(グル)は、ただ解脱への道を示すだけだろう。
神やグルは、自分で弟子を解脱の境地に連れてゆきはしない。

神とグルが別のものではないということは、真実である。
虎の顎にくわえられた獲物逃がれるすべがないように、

グルの慈悲深い目の内に入った者は、グルによって救われ、
見棄てられることはないだろう。

けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道
を自分自身の努力で追求し、やがて解脱を得なければならない。

人はただ自分自身の知識の目によってのみ、自分自身を知ること
ができる。他者の目によってではない。ラーマ神がラーマ神で
あることを知るために、鏡の助けを借りる必要があるだろうか。


21 解脱を願うものにとって、世界の構成要素(タットヴァ)
を探究する必要があるでしょうか?

台所のゴミを棄てるのに、その中身が何であるか調べたり分析
する必要は少しもない。同様に、自己を知ろうとする者には、
世界の構成要素の数をかぞえたりその性質を調べたりする必要
はない。

彼がしなくてはならないことは、自己を覆い隠しているすべての
ものを、構成要素などというものともどもにぬぐい去ることで
ある。世界はひとつの夢のようなものと見なされるべきである。


22 眼が覚めているのと、夢を見ていることに違いはない
のでしょうか?

眼が覚めている状態は長く、夢は短い。この他には何の違いも
ない。眼覚めている間に起こるできごとが真実と思われるように、
夢の中のできごとも夢の中では真実のように思われる。

夢の中では、心は自分のものではない身体に宿っているかのこと
く装っている。眼が覚めている状態と夢の両方の状態にあって、
想い、名前、形が同時に現れてくる。



次回につづく

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