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2016年08月01日 (月) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(4)


13 対象物から刻みこまれた印象(想い)が、
まるで海の波のように限りなく立ち現れてきます。
それらのすべてがぬぐい去られるのはいつのことでしょうか?

自己への瞑想が高く高くなるとき、
それらの想いは打ち破られるだろう。


14 いわば始まりのない時の彼方からやってくる、
対象物によって刻みこまれた印象が溶解し、
その後に人が純粋な自己としてとどまるというようなことが
ありうるのでしょうか?

ありうるかありえないかと思いはかることをやめて、
自己への瞑想を持続すべきである。

たとえある人が大いなる罪人であっても、
「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう」
と悩んだり泣いたりするべきではない。

人は「私は罪人だ」という想いを完全に捨て去り、
鋭く自己の瞑想に集中するべきである。
そうすれば確実にうまくゆくだろう。

一つはよく一つは悪いという二つの心はない。
心はただ一つである。善い悪いの二種類があるのは、
刻みこまれた印象世界でのことである。

心が善という印象の支配下にあればそれは善と呼ばれ、
悪の印象の支配下にあれば邪悪と見なされる。

心は、世間の事物や他者に関することがらにさまよい出さぬよう、
戒められなければならない。他者がどのように邪悪であろうとも、
彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。

欲望と憎しみは、二つとも避けなければならない。
人が他者に与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。

この真理が理解されるなら、他者に施しをしないでいられようか。
その人自身が立ち現れれば、すべてが立ち現れ、その人自身が
静まればすべては静まる。

謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果を見るであろう。
心が静寂に帰せば、人はどこにでも住むことができる。


15 「探究」はどのくらいの期間続けられねばならない
のでしょうか?

心の中に対象物の印象が残されているかぎりは、「私は誰か」と
尋ねなければならない。想いが起こったなら、それはそのとき
その場で、「問う」ことにより、それの起こった原点において
破壊されねばならない。

自己が得られるまで、中断することなく自己の黙想に帰りつづける
ならば、そのときにのみ想いは破壊されるだろう。

城の中に敵がいるかぎり、彼らはつねに反撃しつづけるだろう。
敵が現れるたびにそれを滅ぼせば、やがて城はわれわれの手に
落ちよう。



次回につづく

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