2016年07月01日 (金) | Edit |

ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(3)


11 「私は誰か」という想いをつねに持ちつづけるには、
どうしたらいいでしょうか?

他の想いが起こってきたときに、その思いを追いかけることをやめ
「その想いは誰に起こってきたのか」と尋ねるべきである。

どんな想いが起ころうとかまいはしない。
想いが起こるたびに「その想いは誰に起こってきたのか」
と勤勉に問いつづければよい。

その問いに対する回答は「私に」であるに決まっている。
そこで、その「私は誰か」と問えば、心は源へ引き戻され、
現れ出た想いは静かになるだろう。

この方法をくり返し実修することにより、
こころはその源にとどまる術を見いだすだろう。

微細なものである心が、頭脳や感覚器官をとおして外部へ出ると、
粗大なものである名前や形が立ち現れる。心がハートの内に
とどまっていれば、名前や形は消えてしまう。

心を外に出て行かせず、「内在性」――アンタール・ムカと呼ばれ
ているハートの内にとどめておきなさい。

心をハートから出してしまうことは「外向性」――パピール・ムカ
と呼ばれている。

このように、心がハートの内にとどまっているときには、
すべての想いの源である「私」は去り、常在の自己が輝くだろう。

人が何をするにしても、「私」というエゴ性なしにそれをしなければ
ならない。すべてのことをそのように行えば、すべてはシヴァ(神)
の本性として現れるだろう。


12 心を静かにするその他の方法はないでしょうか?

問う以外に適当な方法はない。他の方法によって心を静めても、
心は静められたものとして現れ、力を増して前面に出てくるだろう。

例えば、呼吸の制御によって心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間だけのことであり、
呼吸が元に戻れば心は再び活動を始め、

潜在しているさまざまな印象に衝き動かされてさまよい歩くだろう。
心も呼吸も、その源は同じものである。想いとは、実に心の本性である。

「私」という想いが、心の最初の想いであり、それがエゴ性である。
エゴ性が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれてくる。

それゆえに、心が静かになれば呼吸も制御され、
呼吸が制御されれば心も静かになる。

けれども深い眠りの中では、心は静かになっているものの、
呼吸は停止してはいない。これは、身体が保持されてあるよう、
また他者が見て、その人が死んでしまったと思いこまないようにとの、
神の意志によるものである。

目が覚めている状態およびサマーディ(三昧)にあっては、
心が静まっていれば呼吸も制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。

死のときまでは、心は身体内に呼吸を保つ。
身体が死ねば、心は呼吸とともに出てゆく。

それゆえに、呼吸制御の実習は、心に静かさを取り戻すための
方法、すなわちマノニグラハであって、心を消滅させる方法、
マノナーシャではない。

呼吸制御の実習と同じく、神の姿を瞑想すること、
マントラを唱えつづけること、断食その他の実習は、
心に静かさを取り戻すための方法にすぎない。

神の姿を瞑想することや、
マントラを唱えつづけることによって、
心は一点に集中される。

心はつねにさまよいつづけるものではあるが、
鼻を鎖でつながれた象が他のものは何もつかまえられないように、
神の御名や姿に満たされていれば他の対象には動かない。

数知れぬ想いへと心が拡散しているときは、
そのひとつひとつの想いは弱いものとなる。
それが消えてしまうと心は一点に集中され、強いものになる。

そのような心にとって自己を問うことは容易である。
これまで述べてきたいろいろな方法の中では、
適当な量の清らかな食物を摂るという方法が最上である。

これを実践することによって心の清らかさが増し、
自己を尋ねる助けになってくれる。



次回につづく

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