2016年05月01日 (日) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(1)


すべての生きものは、
いつでも幸福であることを願い、
悲惨でないことを願っている。

私たちひとりひとりについて考えてみても、
そこに自己への至上の愛があることが認められる。

その愛の源はただ一つ、幸福である。

人間の自然性である幸福、
心のない深い眠りの中で体験される幸福を手に入れ
るためには、人は自己を知らねばならない。

自己を知るためには、「私は誰か」という問いで
自己を尋ねる知識(ジュニャーナ)の道が、
最も重要な方法である。


1 私は誰でしょうか?

七つの気まぐれな部分(頭部、両手、胴体、生殖器、両足)
から成るこの粗大な身体、私はそれではない。

五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、そして嗅覚は、
それぞれの対象である、音、感触、色や形、味、そして匂い
をとらえるけれども、私はそれらではない。

五つの能動的な器官、発声・運動・認識・排泄および生殖器官は、
それぞれに話すこと、動きまわること、認識すること、排泄する
こと、楽しむことを機能するが、私はそれらではない。

五つの生気、すなわちプラーナその他のものは、それぞれ吸気
その他の働きをするけれども、それらは私ではない。ものごとを
考える心すらも、私ではない。

対象物の印象のみが刻みこまれている無知、そこに対象物も
働きかけもない無知もまた私ではない。


2 私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

今述べたことのすべてを「これではない」、「これではない」と
否定し去った後に、ただひとつ残る自覚、それが私である。


3 自覚の本性は何でしょうか?

自覚の本性は、存在ー意識ー至福である。


4 自己の実現はいつ得られるでしょうか?

「見られているもの」である世界がぬぐい去られたとき、
「見るもの」である自己の実現がやってくるだろう。


5 世界がそこにありながら(実在としてとらえられながら)、
  自己が実現されるということはないのでしょうか?

ないだろう。


6 なぜでしょうか?

見る者と、見られている対象物とは、
ロープと蛇のようなものである。

蛇という間違った知識が消えないかぎり、
実体であるロープという知識はやってこない。

同じように、実在するものとしての自己の実現は、
世界が実在するという信念が消えてしまわないかぎりは
得られないだろう。




次回につづく

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