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2016年05月15日 (日) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(19)


これでやっと空の説明ができる。

意識が立てるのは、根本的には秩序である。
ところが秩序はかならずゴミを出す。

だから全体としてみれば、
「何か起こったようでいて」、
じつは「なにも起こっていない」。

ゴミを含めた全世界のトータルは、
つねにゼロだからである。


色受想行識という五蘊(うん)、
つまり脳活動のトータルは
「皆空」なのである。

「俺の考えが空のわけがないだろうが」
と思う人は多いはずであろる。
「そう思う」のは意識だからである。

「そう思う」人は、
「寝ているときには、どう思っているのだろうか」
を考える必要がある。

・・・・・・
無と空で、世界ができるか。
できると私は思う。

だって、コンピュータはまさにゼロと一だけで
できているではないか。

無にゼロを当て、空に一を当てれば、
コンピュータの世界がたちまちできてしまう。

ふたたび世間の常識はいうであろう。
現実はどうなる、と。だからそれは
感覚世界のことでしょ、と私はいう。

概念世界は、要するに無と空で作れてしまうのである。
それだけのことですよ、とお釈迦様はいった。
かどうか、じつは私は知らない。

でも本当にそういったかもしれないと思う。
そう思えば、「度一切苦厄」ではないか。
それが一切の苦しみを救うというのである。

・・・・・・
途切れ途切れの意識ばかり、
信用するんじゃない。

そもそも意識が途切れている間の責任なんか、
意識は取ってくれないんですからね。

そのくせ「途切れている」間を全部すっ飛ばして、
意識は自分が連続していると思い込んでいる。

それが死ぬときに本当に切れてしまうと想像すると、
怖がったり、慌てたりする。

べつに毎日切れているんだから、
いまさらなにを怖がるのかと、私は思うが。


感覚世界、つまりいわゆる現実で、なにが起ころうが、
それは「仕方がないでしょ」と述べたはずである。

人生でいうなら、それが四苦八苦である。
生まれて、年老いて、病を得て、死ぬ。
それに八苦という感情が伴う。

それはもともとそうなんだから、
仕方ないじゃないですか。

意識がしっかり考えて、人生は四苦八苦で行こうと、
国会で相談して決めたわけじゃない。

意識で四苦八苦をなくすことはできない。
あとはお釈迦様に聞いてくれというしかない。

「日本の無思想」とは、じつは般若心経みたいな
ものだといえば、それはインドにも中国にもある
ということになろう。

元はといえば、インドのお経を中国語に翻訳した
ものなんだから。そう思えば、これも元はレンタルで
それならわれわれは、日本の世間がこうであるのは、

「俺のせいじゃない、元を正せば、お前らのせいだ」
といっていればいいのである。北京政府が、
「歴史を尊重せよ」というのであれば、

「般若心経を尊重してます」
といえばいい。般若心経は中国語ですよ。


私はべつにヤケクソになっているわけではない。
思想で政府が喧嘩するなんて、アホだろ、
といっているだけである。

思想なんて、議論だけしてりゃいいのである。
情理を尽くして議論し、
「それで生じた秩序によって生じた」無秩序は、

寝ている間に脳が黙って片付けてくれる。
その意味では、議論だけなら無公害なのである。

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テーマ:仏教・佛教
ジャンル:学問・文化・芸術
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