2016年03月15日 (火) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(17)


いったい無思想という日本の思想は、
どこから来たのだろうか。

それが日本独自のものでないなら、
世界に味方が見つかるはずである。

これについて、ちょっと考えてみると、
だれでも思い当たることがあるのではなかろうか。

日本語では「無」という言葉は、
じつは頻用されるからである。



たとえば諸行無常。
諸行無常は立派な思想であろう。

そう思えば、無思想という思想は、
つまり仏教に由来したに違いない。

ところが日本の思想、日本の無思想を論じる人たちは、
お坊さん関係者ならともかく、
仏教のブの字もいわないのが普通である。

思想を論じる人たちに、
仏教に触れたくないという気分がある。
そんな風にしか、私には思えない。

それならそれがなぜか、
そのほうに私には興味がある。

日本人つまり世間の人であれば、
「自分は無宗教だ」
と思っているわけで、それなら、

「自分の考えがまさか仏教だとは思えない」
のが当然であろう。


般若心経といえば、ごく一般的なお経である。
これを調べてみたら、全文二百六十六字のなかに、
「無」という字が二十一あった。

これこそ無思想の思想そのものである。

念のためだが、般若心経については、
いくつも解説書がある。そのなかで、
仏教関係者ではない人のものとして、

柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』(小学館)
が近年の好著であろう。内容は一種の翻訳である。
以下の記述はこれを参考にした。


脳には感覚入力があり、
それを受けて計算を行い、
行動という出力をする。

この過程は般若心経では「受想行識」
とまとめられている。

「受」は感覚入力、
「想」は上の計算、
「行」は出力である。

「識」は上の本では知識と訳されているが、
「受想行を意識していること」と解釈しても
問題ないであろう。

それなら私の説明は、般若心経の用語を
用いても十分だったのである。


乱暴にいうなら、仏教思想とは
「脳から見た世界」である。

だからこそ、私は自然科学を根拠にして
「唯脳論』を書いているうちに、いつの間にか
お釈迦様の手のひらに乗ってしまったのである。

それはべつに私が仏教徒になったという意味ではない。
「日本語で考える」思想には、仏教という立派な先達がある。

考えて本を書くという作業を通じて、
私という無学な人間が、
それにはじめて気がついただけのことである。


次回につづく

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テーマ:仏教・佛教
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