2016年02月15日 (月) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(16)


日本に思想はないというこを考えていくと、
さまざまな日本的特質の説明ができる。

日本人が「形を重んじる」のは、
思想がないからである。
形に思想はいらない。

しかし形は動かしがたい。
同時に形は目に見えるから、
それは現実だと思われやすい。

こうして司馬遼太郎の日本論は、
『この国のかたち』(文春文庫)になった。

司馬遼太郎は典型的な日本人だから、
日本思想を論じる代わりに「かたち」を論じた。

繰り返すが、「ないもの」を論じることは
できないからである。


茶道なり武道なり、あるいは神道・仏道・修験道なり、
日本の伝統的な「道」を、思想として説明するのは
困難である。

世間ではそれをよく「理屈ではない」という。
理屈ではないというより「言葉ではない」のである。

基本的にはそれらは所作、
すなわち身体技法である。

言葉で表現しない代わりに、
こういうものが発生したのであろう。

「思想なんかない」という原理は、
言葉による思想を抑圧する。

それなら「思想」表現は、言語以外の、
他のさまざまな形をとるしかない。

日本にいまだに禅が広く残っているのも、
そのためであろう。
禅では、不立文字と「文字で書く」。

禅が先なのか、「思想なんてない」という
思想が先なのか、そんなことは知らない。

しかし禅が元祖のインドや中国を外れて、
もはや「日本らしい」ものになってしまった
ことは確かであろう。


現代において、この伝統的思想が
問題になっているのは、当然として理解できる。

現代は言葉の時代であって、
日本の世間においてすら「言葉にならないものは、
存在しない」という傾向が表れているからである。

「説明しなきゃ、わかんないじゃないか」
と叱られる時代なのである。だから私は、
「説明すりゃわかるのかよ」

という『バカの壁』(新潮新書)を書いた。
それが「受けた」ということは、
「実体に対する確信」、

以心伝心という伝統思想も、
まだそれなりに生きている
ということであろう。


言葉とは、その意味で、
じつはむなしいものである。

言葉の時代にいるかぎり、
しみじみそう感じることは少ないであろう。

それぞれの人が、息せききって、
おしゃべりをしているからである。

本を書きながら「言葉はむなしい」
というのも変なものだが、

なにしろ「思想なんかない」
という文化の国だから、
それぐらいは勘弁してもらえると思う。



次回につづく

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テーマ:仏教・佛教
ジャンル:学問・文化・芸術
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