2015年12月15日 (火) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(14)


なぜ日本人は「自分には思想はない」
と思いたがるのか。

一つには、それが謙虚な態度に見えるからであろう。
世間で生きていくには、謙虚に見えることは、
処世術として大切なことである。

もう一つは、「自分に思想はない」と思ったときから、
それ以上、思想について考える必要が
なくなるからであろう。

考えるというのは億劫なもので、
それこそあれこれ考えるくらいなら、
「やってしまったほうが早い」。

それだけではない。論理的にも、
「自分には思想がない」という思想は、
もっとも経済的な思想である。

なぜなら、そう思ったときには、
他の思想についても、自分の思想についても、
もはやその内容を考える必要がなくなるからである。

「ない」ものについて、
考えることはできないではないか。


日本の場合、信仰もこれと同じである。
世界にはさまざまな宗教がある。しかしほとんどの
日本人は特定の宗教の信者ではない。

なぜかというと、「困ったときの神頼み」で、
都合によりどの宗教を信じてもいいからである。

ということは、要するにどれも信じていないから、
ということもできる。具体的にいうなら、
「特定の宗教を信じない」という態度を採用する。

そういう態度をとれば、
どの宗教にも深入りしないで済む。
「なにかを信じる」なら、

「なにも信じないことを信じる」
のがいちばん経済的であることは、
すぐにわかることであろう。

第一に、自分がなにを信じている(いない)のか、
それがきわめてわかりやすい。

第二に、どういう教義内容を信じたらいいのか、
それを考える必要がない。

第三に、仮になにかを信じたときに起こりうる、
「だまされた」という問題を避けることができる。
信じなきゃ、だまされない。

宗教について尋ねられると、
日本人はしばしば自分は「無宗教」だと述べる。

相手が外国人でもなければ、
ふだんそんなこと訊かれることはない。
それを訊かれてあらためて考えてみると、

「ハテ、俺の宗旨はなんだっだっけ」
ということになる。そこでいわば正直に
答えようとすると、つい、

「無宗教です」
と答えることになる。すると、
相手は仰天したりするのである。

これだけまじめそうで、
悪いことなんてとうていやりそうもない人が、
なんでアンチ・クリストなんだろう。

アメリカのファンダメンタリストでなくても、
ふつうのキリスト教の常識人なら、
そう思うに違いない。

外国の「無宗教」とは、確信犯としての無宗教、
「思想としての無宗教」だからである。

そういうわけで、日本人はたいてい無宗教、
無思想、無哲学だと主張する。


次回につづく

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テーマ:仏教・佛教
ジャンル:学問・文化・芸術
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