2015年11月15日 (日) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(13)


ここまで、
「自分とは、なんだろうか」
という疑問について考えてきた。

「自分探し」の若者ならともかく、
この世間で働いて生きてきた人であれば、
そんなことを考える暇があったら、

もっと違ったことを考える。
考えると思う。

いまの上役が気に入らないから、
なんとかならないかとか、
給料が安いじゃないかとか、

女房と喧嘩したけど、
どう始末をつけるかとか、
これからなにをしたら儲かるか、とか。
世間ではそれを「現実的」な態度という。

そういう現実的な人に、
「自分とはなにか」
と尋ねたら、

「そんな哲学的なこと、俺は知らん」
というと思う。いうに違いない。

日本の世間を長年生きてきて不思議に思うのは、
この「哲学的」という言葉である。

だれかが、なにかを「哲学的だ」といえる
ということは、哲学とはどういうものか、
それがその人には、はっきりわかっている
ということである。

「そんな哲学的なこと」といえるんだから、
「哲学的なものとは、どういうものか」
それがその人にははっきりとわかっている
というしかない。


しかし、哲学とはどういうものか、
それがわかっている人ほど、
右のように哲学を語らない。語ろうとしない。

なぜ哲学を語らないかというなら、察するに、
そんなもの、語っても意味がない、
と思っているのであろう。

「哲学なんか、語る意味はない」という、
その考えを持つに至ることこそ、じつは
「哲学的であること」、そのものなのである。

・・・・・・
その意味では十分に「哲学的」な人たちが、
なぜ哲学そのものを避けようとするのか。

「哲学なんて空理空論だから、
会社の状況に無関係だから、
家庭生活に無関係だから、
お金儲けに無関係だから、
要するに現実と関係ないから」。

繰り返すが、じつはこれぐらい立派な哲学はない。
ここまで述べてきた「哲学」という言葉を、
思想と置き換えてもいい。


「思想は現実とは無関係である」。
他方「自分が生きているのは現実の世界である」。
ゆえに、「自分には思想なんてない。

たとえそんなものがあったとしても、
現実=世間で生きていくのに害こそあれ、
意味も必要もない」。

これがふつうの日本人の思いであろう。
これはきわめて逆説的な結論である。

「俺には思想なんてない」

これこそが、もっとも普遍的な日本人、
つまり世間の人の思想となっているからである。


次回につづく

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック