2015年10月15日 (木) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(12)


「自分を創る」作業の典型を、
以前は修行といった。

比叡山の千日行というのがある。
叡山の山中を千日、
たたひたすら走り回る。

それを終えると、大阿闍梨という称号がもらえる。
マラソンの選手じゃないんだから、
お坊さんが山を走り回ったところで、
一文にもならない。

だれに頼まれたわけでもなし、
そんなことをしても、なんの意味もない。
GDPも増えない。

じゃあなんでそんなことをするのか。
走り回った挙句の果てに、本人が変わる。
つまり修行のあとに出来上がる唯一の作品が、
大阿闍梨本人である。

修行を無益だと思う人は、そこを忘れている。
芸術家なら作品ができるし、大工なら家が建ち、
農民なら米がとれる。

しかし坊さんはそのどれでもない。
それならなにをするのかといえば、
「自分を創る」のである。

叡山を走り回ったら、自分ができるのか。
そんなことは知らない。
しかし伝統的にそうするのだから、
できるのであろう。

少なくとも、ふつうのお坊さんではなくなる
はずである。それだけのことだが、
人生とは「それだけのこと」に満ちている。

私は三十年、解剖をやった。
それだけのことである。
そのあと十年、本を書いた。
それだけのことである。


自分とは「創る」ものであって、
「探す」ものではない。

それが大した作品にならなくたって、
それはそれで仕方がない。

そもそも大したものかどうか、そんなこと、
神様にしか分かるはずがない。
それがわかったら、

もう個性とか、本当の自分とか、
自分に合った仕事とか、
アホなことは考えないほうがいい。

どんな作品になるか、わかりゃしないのだが、
ともかくできそうな自分を「創ってみる」
しかない。そのために大切なことは、

感覚の世界つまり具体的な世界を、
身をもって知ることである。
そこで怠けると、あとが続かない。


次回につづく

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック