2015年09月15日 (火) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(11)


昔のように、お姑さんが、
「この家では、こうするんです」
と理も非もなく教え込めば、
嫁は反発するであろう。

反発すれば、考えるようになる。
しかし、私の育った時代からすでに、

「子どもには個性がある、個性があるんだから、
それにふさわしい教育をすべきだ」
という世界になった。

だから子どもを「自由」にさせておくわけで、
それで育った大人に明確な自分が「できている」
はずがない。

若者のいう「自分探し」の自分、
「自分に合った仕事」の自分も
トーストの厚みの違いていどの、
ごく「軽い」自分なのであろう。

だとすれば、
「自分は世間が作る」なんて述べても、
「なんのこっちゃ」と思うであろう。

「自分とは自分の内部つまり意識である」
と堅く思い込んでいるから、
(歌舞伎役者の襲名のような)

「名前が先代と同じなんて、とんでもない、
そんなことをしたら本当の自分はどこに行くんだ」
などと思うに違いない。

どこに行くにも、ここに行くにも、
それこそ自分は自分で、どうにも仕様がない。
そう思うことが、それこそ「自分を創る」
第一歩である。


もともと世間とは、
ジブンがアンタになっちゃう世界なんだから、
父親の名前が息子の名前になるくらい、
なんの不思議もありはしない。

いおうがいうまいが、
ホンネはホンネだろ、
という世界なのである。

それを論理的に変だとか、封建的だとか、
いろいろに非難してきたが、
それで立派な世界ができたかどうか、

それこそもう一度、
胸に手を当てて考えてみたら
いかがなものか。

そこでむしろ失われたものが、すでに述べた、
「実体に対する確信」である。

だからこそ若者の「自分探し」なので、
「自分という実体」の確信に欠けるからこそ、
「自分を探す」。


それに輪をかけているのが、「感覚世界」の不在
つまり経験の不足である。実体とは、
感覚の世界に基礎を置くものだからである。

経験の不足は、食卓の例でも
はっきり指摘されている。

主婦の食材や料理に関して、岩村氏は、
「経験は量も質も、本当に下がっていると思う」と書く。
というより、嘆く、呆れるというべきであろう。

経験とは、感覚世界に触れて覚えたことである。
いつの時代でも、若者にはその不足がある。

しかし現代ほど、
そうした経験不足が極端な時代はあるまい。


次回につづく

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