2015年08月15日 (土) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(10)


いわゆる自分、ふつうの自分は、
自己の内部で閉じているのではない。
世間に開いている。

その世間が不安定化すれば、
自分は不安定になる。

それが現代日本で起こっていることであろう。
いまではそれを「不安」などと呼ぶのであろう。

「他人が見る自分」なんて、
「本当の自分」じゃない。
今の若者なら、そう思うかもしれない。

だからフリーターが増える。
「自分に合った仕事を探そう」
などと思うからである。

それなら「あらかじめ自分がある」わけだが、
残念ながら、世間的な自分は「作られるもの」
なんだから、これでは手順が前後逆転している。

「後から自分ができてくる」のである。

人が世間のなかで生きるしかないことを考えたら、
「他人が見る自分は本当の自分じゃない」で通る
わけがないことは、すぐにわかるはずである。

むしろ「他人が見る自分こそが自分だ」とすら、
いえるかもしれない。無人島に住んで、

「俺はこういう個性的な人間だ」
と威張ってみても、べつに意味はない。

「当人にとって意味がある」と思う人は
思うだろうが、しばらくすれば、
その自分に飽き飽きするに決まっている。


他人の目と自分の目を、
自分について「合わせていくこと」、
それが完全にできるようになれば、

「心の欲するところに従って、矩(のり)をこえず」
となるであろう。

それがつまり「自分を作る」ことであり、
世間ではじめて働くようになった若者なら、
「自分を創る」ことである。


もっともいまの世間で、
「自分」なんて真面目に考えても、
若い世代は白けるだけかもしれない。

岩村暢子『変わる家族変わる食卓ーー真実に破壊される
マーケティング常識』(勁草書房)は、食の変質を
ていねいに調査した結果を述べている。

もちろん食の変化はじつは
きわめて多数の要因が絡まりあっていて、
こうだからこうなったんだという単純な応えはない。

でもたとえば朝食を調べてみると、
家族それぞれがそれぞれのものを食べる家庭があるという。
それがせいぜい「自分」なのであろう。

いま自分はこれが食べたい、
それは父親の食べたいものとは違う、
というわけである。

その食べたいものといえば、
トーストのパンの厚さの違いとか、
焼く時間の違いとか、

つけるものがジャムかママレードかとか、
娘ならピザトーストだとか、
食糧難を通過した私から見れば、

どうだっていいじゃないの、
という違いに過ぎない。


自分とは、そのていどに
「軽い」ものになった
ともいえる。


次回につづく

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