2015年07月15日 (水) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(9)


だれだって、「自分はある」と思っている。

それは、大地が平たいと思っていても、
日常生活には差し支えがない、
ということと同じである。

でもじつは地球は丸い。

「皆がそう思っている」という例なら、
いくらでもあるし、いくらでもあった。
一億玉砕もそれである。

「隣の人は玉砕するつもりだナ」
と、その隣の人が思い、
そのまた隣の人もまたそう思い、

以下順送りで、
「だれだってそう思っている」
ということになっただけである。

実存としての自分なんか、ない。そう述べた。
しかし、その意味での「自分がある」という文化は、
世界の人々の三分の二を占める。

一神教の世界、最後の審判がある世界では、
自分があることが古くからの前提だからである。

それに対して仏教の世界では、
無我ということになる。

とはいうものの、
いまでは無我なんて本気で思っている人は、
ほとんどあるまい。

多くの人が「と思っている」ということは、
それが「真である」ことを保障しない。

しかし、そう思うについては、
それなりの根拠があるのではないか。
それはその通りであろう。

だれであれ、やはりどこかで、「自分はある」
「自分は自分」と思っているであろう。
ではその自分とはなにか。


そうした自分とは、日本の社会では、
「世間的に作られる自分」である。
それを以前は「らしさ」といった。

「男らしい」「女らしい」は、
その一つである。
そんなものは封建的な見方だ。

かつてそういわれたのは、ある意味で正しい。
「らしさ」とは、すなわち社会の産物だ、
ということだからである。

・・・・・・
「作られた自分」だから、それはウソだ、
「本当の自分」ではない。
私はそんなことをいうつもりはない。

「作られた」自分も、また自分である。
むしろそれがいわゆる自分、
「ふつうの自分」なのである。

それは世間の中に置かれた自分であり、
「家族がある以上、家族を食わせなきゃならない」
と思っている自分である。


日本人はふつう世間にどぷり漬かって暮らす。
それなら「世間の中の自分」こそが、
ふつうは自分である。

・・・・・・
「ふつうの自分」が世間的に
作られたものだということは、
年配の人にはよくおわかりのはずである。

天皇陛下はその意味では「作られる」。
それならそれは陛下の本性ではない、
作り物だといえるであろうか。

社会的役割とは、多かれ少なかれ、
その人そのものになってしまう。
それを「強制し」、維持するのは、
周囲の状況である。

だから社長は社長らしく、
平社員は平らしいのである。


次回につづく

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