2015年06月15日 (月) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(8)


意識は機能だということは、
強調しておくべきであろう。

意識はなにかの実体だという
感じがふつうするからである。

自我も意識だから、はたらきのはずだが、
実体に近いものと感じている人が
多いのではないか。

というより、
ふつうは実体だと信じられている。

「意識が実在する」という感覚は、
きわめて強いからである。
それが自我に強い実在感を与える。

欧米では、社会がそれを増幅する。

念のためだが、
あれだけ「個を主張する」アメリカ人でも、
神経科学者のなかには、「自我なんてない」
と考える人が増えてきている。

その根拠は、脳機能が意識に先行する例が
知られるようになったからである。

たとえば、水を飲もうと「思って」、
コップのほうに手を出すとする。

じつはそう「思う」0.5秒前に、
「水を飲む」行動に対して、
脳はすでに動き出している。

いまではそうした測定が可能になった。
それなら「水を飲もう」という意識は、
「無意識である」脳機能の後追いなのである。

意識は「自分が水を飲もうと思ったから」、
「その思いがコップに向かって手を出させる」
と「思っている」。それは逆である。

心理学では、「悲しいから泣くのではない、
泣くから悲しいのだ」ということがある。

常識的な意識は「そんなバカな」と思うだろうが、
じつはその「常識的な意識」のほうが、
たぶんウソなのである。


脳の状況から意識が生じるというのは、
日常的な経験からも当然であろう。

結婚を申し込むときに、
ムードを考えて、
さまざまな工夫を凝らす。

ムードというのはつまり、
脳の状態を上手に操ろうとする、
経験的手段なのである。

商談を成立させるには、
一緒に酒を呑んだり、ゴルフをしたり、
中華料理のように円卓を囲んで
食事をしたりする。

つまりなんとかして
「自分にとって都合のよい意識状態を、
相手の脳に生じさせようとする」わけである。


そういうわけで、自我を主体であり、
実体であると考えるのは、
所詮無理である。

ただし文化的伝統は抜きがたいもので、
欧米人あるいは近代人がどこまでその点で
意見を変えるか、私は楽観していない。


次回につづく

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック