2015年04月15日 (水) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(7)


日本人であっても、ロックと同じように、
指が落ちようが落ちまいがそれは
「同じ人」にきまっているじゃないか、

とふつうは思うであろう。
じゃあ訊くが、どこが「同じ」なのか。

人体を構成する物質は、
一年経ったらおそらく九割以上、
入れ替わってしまう。

一年経った人間は、
去年とはその意味では「別な人」である。

無思想の発見 (ちくま新書)無思想の発見 (ちくま新書)
(2005/12)
養老 孟司

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「現代人は客観的で、唯物的なんでしょ。
物体としての自分が、九割以上、
材料を入れ替えてしまうなら、
それは客観的かつ物質的には『別な人』じゃないの」

世界中のだれに訊かれたって、私はそういう。
だってそうなんだから、仕方ないじゃないですか。

「それは身体の話だろ。心は違う」
いまの論点に気がついた人は、そういうであろう。
ロックはだからそういったのである。

身体を自分だとすると、
自分は同じ自分ではなくなってしまう。
歳をとれば、そんなことはイヤでもわかる。

それなら「同じ自分」という観念を保持するためには、
身体を勘定に入れるわけにはいかない。

念のためだが、「同じ」というのは、
「変わらない」ということである。


じつは「同じ」というのが、
意識の特徴なのである。

意識は「同じ」という
「強い機能=はたらき」である。

目が覚める、つまり意識が戻ると、
たちまち「同じ自分」が戻ってくる。

一生のあいだに何回目を覚ますか、
面倒だから計算はしない。しかしだれでも
数万回は目を覚ますはずである。

そころがそのつど、
「私はだれでしょう」
と思うことは、いささかもないはずである。

つまりそのつど「同じ自分」が戻ってくる。
それなら「同じ自分」なんて面倒な表現をせず、
「自分」でいいということになり、

いつの間にか「自分」という概念に
「同じ=変わらない」が忍び込んでしまう。


西洋人はアイなんて言葉をたえず使っているから
「自分」が戻るのだが、私の場合には単に
「同じ」が戻ってきちゃうのである。

正確にいうなら、
戻ってくるのは「同じというはたらき」であり、
言い換えれば「同じというはたらき」に過ぎない。

つまり意識が戻るとは「電灯がつく」ようなもので、
そのときにだれも「電灯が戻ってきた」とはいうまい。

この場合電灯が脳で、
「明かりがつく」のが意識である。

意識は「はたらき」つまり機能で、
機能はモノのような実体ではない。


次回につづく

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