2015年03月15日 (日) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(6)


『人間知性論』のなかで、
ジョン・ロックはいう。

「たとえ指を切り落としたとしても、
自己が減ることはない。
肉体は自己ではないからだ」、と。

指じゃあ、自己は減らないかもしれないが、
首ならどうなんですかね。

話をもう少し細かく具体化して、
脳のほんの一部を「切り落とした」ら、
どうなるか。

ロックの意見それ自体が変化するか、
切り落とす脳の部位によっては、
全部の意見が消えてしまう。

無思想の発見 (ちくま新書)無思想の発見 (ちくま新書)
(2005/12)
養老 孟司

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私はべつに、
「近代科学の立場からロックの意見を裁いている」
わけではない。

ロックとたとえ同時代に生きていたとしても、私は、
「ロックさんそりゃいい過ぎだよ」というであろう。

私は「自己は指とは違うもの」とは
思っていないからである。
それはおそらく私が日本人だからだと思う。

以前に吟味したことがあるが、
日本の哲学者は心身一元論なのである
(『日本人の身体観の歴史』法蔵館)。

しかしロックは、自己は身体を含まないという。
ロックはイギリス人で、だから西欧文明では、
かなり前から、

「自分は身体ではない、身体は自分ではない」
と思っているらしいのである。西洋人って、
よくこういう無茶なことを考える人たちなんですよ。


その理由は歴然としている。私はそう思う。
なぜなら西洋はキリスト教世界で、
キリスト教では霊魂不滅だからである。

霊魂は身体ではなく、身体は霊魂ではない。
だから臓器移植があんがい平気なのであろう。
身体は霊魂の仮の住まいなのである。

しかもそこには最後の審判という、
世界の週末が予定されている。

霊魂が不滅でないと、
神様は最後の審判ができない。

同じ霊魂であっても、
アルツハイマー病の霊魂が出てきたのでは、
神様でも困るはずである。

それなら「永遠に変わらないものとしての魂」
がなければならない。

だから「変わらない私」「自己同一性」が
暗黙のうちに当然とされるのである。

そうした思考の枠組みは、
キリスト教だけではなく、
イスラム教、ユダヤ教にも共通している。

旧約聖書は、これらの一神教に共通の聖書である。
現代人が宗教なんてホンネで信じていないとしても、
こうした文化的な伝統は簡単には変えられない。


西欧の「近代的自我」というのは、
中世以来の「不滅の霊魂」を近代的・理性的に
いいかえたものだろうと私は思っている。


次回につづく

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テーマ:仏教・佛教
ジャンル:学問・文化・芸術
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