2015年01月15日 (木) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(4)


結論を先にいおう。

日本の世間における、
私というものの最小の「公的」単位、
それは個人ではなく、「家」だった。

日本の世間は「家という公的な私的単位」
が集まって構成されていたのである。

そういえば、年配の人たちは
たちどころに理解するであろう。
新憲法はそこに「個人」を持ち込んだ。

つまり「自分」が最小の私的単位だと、
公に決めたのである。

無思想の発見 (ちくま新書)無思想の発見 (ちくま新書)
(2005/12)
養老 孟司

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世間の私の最小単位が家だということから、
簡単に説明できることがいくつかある。

日本では相当にケチな家でも、たいてい塀がある。
泥棒なら問題なく乗り越えられる塀が多いから、
あれはなんだと、子供の頃から疑問だった。

外国に行くようになったら、
この塀が探してもなかなかない。

お手本の西洋では、場所にもよるが、
たいていの家がいきなり裸で建っている。

東南アジアで塀があると、じつに立派な塀で、
塀の上に鉄の針だのガラスの破片などを植え込んで、
塀の中にはドーベルマンがいたりする。
つまり家の主人はお金持ちなのである。


他方、日本の世間では、泥棒が入ったとしても、
「気の毒だからなにか置いていこう」
と思いそうなアバラ屋にも、
それに見合った塀があったりする。

つまりあの塀こそが、
私的空間を世間から境するものである。

「男子ひとたび門を出ずれば、七人の敵あり」
ということになる。

家のなかと同じように、フンドシ一丁で
気を緩めているわけにはいかない。
いったん「門を出れば」、公的空間だからである。


そう思えば、嫁姑とはなんだったか、
それもわかるであろう。

ある私的規則を持った私的空間から、
別の規則を持った別な私的空間に移動する。
それがお嫁さんである。

新たに移った先は、自分が生まれ育ったのとは
「別な私的空間」だから、当然規則が違ってしまう。
それを教えるのが姑の役割だった。

別に嫁さんをいじめるのが姑の本来の
仕事だったわけじゃない。

姑だって、さらに別な私的空間から、
かつてその家に来た人だった。

突然、日常のルールが変わるということが、
どういうことか、それがよくわかっている
人だったのである。


次回につづく

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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
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