2014年12月15日 (月) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(3)

近代的自我の進入

俺もお前も一緒くたの世界に、
ある日突然、
実存的主体としての自己が進入してきた。

これを西欧近代的自我という。
当時はなんでも欧米を見習えという時代だから、
それはそれで仕方なかった。

しかし、もともと世間にそういうものは
なかったんだから、
これがいかに厄介な問題を引き起こしたか、

たいていの人はなにか気づいているのでは
なかろうか。

無思想の発見 (ちくま新書)無思想の発見 (ちくま新書)
(2005/12)
養老 孟司

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「日本人には自我がない」
「個の確立」
「自分の意見をはっきりいえるように」

「個性を伸ばせ」といった言葉を、
どこかで聞いたはずである。

日本独特といわれる「私小説」なるものも、
近代的自我の導入によって生じたものに違いないと、
かつて論じたことがある。(『身体の文学史』新潮社)

なにしろいきなり「独立した自我」なんていわれても、
フツーの人は、「そりゃ、俺のことか」
と思うに違いなかったからである。

それなら「俺ってなんだ」を
具体的に吟味することになり、
日本人は真面目なところがあるから、

自分が毎日することを懇切丁寧に記録し、
それが私小説になった。

だってそれ以外に、自分なんて、
吟味の仕様がないではないか。

「近代的自我なんて、そんなもの、
入れなきゃいいじゃないか」


だからしばらくはインテリを除いて、
「そんなもの」は世間に入らなかった。

たとえば英国に留学した夏目漱石は、
さすがに近代的自我をよく知っていた。
「私の個人主義」なんて講演を
しているくらいである。

しかし漱石は、個人主義を推奨し、
近代的自我を導入せよと主張したのではない。

明治人として、世間というものを同時に
たいへんよく知っていた。

だから西洋風の個と、世間との対立を、
身をもって感じ、どうすればいいか、
どう考えればいいか、大いに悩んだ。

胃潰瘍になったのも、
それが原因の一つであろうと、
私は思う。

・・・・・・
しかしその漱石が、
晩年にはなんと「則天去私」と述べた。

近代知識人としての漱石は、
とどのつまりは「私を去った」のである。


どこでどう曲がったか、
その無私が行き着いた先が滅私奉公、
一億玉砕の世界である。

「滅私」ってつまり、
「私なんて、徹底的に滅ぼせ」
ってことですからね。

その世界が敗戦で壊滅して、
おかげで新憲法になった。

そこでついに西欧近代的自我が大手を振って
入ってきて、近代的自我こそが
世間の公式のタテマエになった。

それでめでたく近代的自我が成立したかというと、
とんでもない話である。「そんなもの」を入れたら、
世間が壊れてしまう。

それでも徐々にそれが入ってきて、
おかげさまで世間は壊れかけている。

若者は個性とか個人を、
「あったりまえじゃないか」
と思っているからである。


べつに「あったりまえ」じゃない。
西欧の個にはそれなりの長い歴史があり、
社会的必然がある。

それがない日本の世間に、
「自我」だけが入ってきても、
根本から定着するはずがない。


次回につづく

テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
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