2014年11月15日 (土) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(2)

一人称の不思議

自分を表現する日本語は数多い。
ワタシ、ワタクシ、オレ、オイラ、ボク、小生、
時代劇なら拙者、身共(みども)、それがし、などなど。

英語にかぎらず、たいていの言語では、
自分を表現する言葉は一つで済む。

なぜ日本語には自分を示す言葉がたくさんあるのか。
たくさんあるということは、じつは「定まった私」
なんて、ないということではないのだろうか。

無思想の発見 (ちくま新書)無思想の発見 (ちくま新書)
(2005/12)
養老 孟司

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ジブンという言葉は、
関西弁では相手をさすことがある。

「ジブン、ニンジン嫌いやろ」

などと、相手を指していう。
関東で育った若者は、ひょっとすると、
なんのことやら、意味がわからないであろう。
むろんこれは、

「アンタ、ニンジン嫌いだろ」

という意味である。それならジブンは同時に
アンタという意味である。

これに類する使い方は、ほかにもある。
「手前」という言葉がそうである。
江戸の店屋の番頭が揉み手をして、

「手前どもでは」
という光景なら、
テレビの時代劇でやっているであろう。

ところが下町の喧嘩になると、
「テメー、この野郎」
ということになる。

このテメーは当然「手前」に由来するわけで、
それならここでも、
俺とお前は同じ言葉なのである。

「己れ自ら」というときの「おのれ」は自分だが、
侍が怒リ狂うと「おのれ、許さん」とかいって、
刀を振り回したりする。後のほうの「おのれ」は、
テメーこの野郎、のテメーと同じであろう。

あるいは小さい子に対して、
「ボクちゃんだめよ、そんなことしちゃ」
と叱っているオバさんがいる。

ここでのボクも、アンタという意味である。
これを外国人に説明しようと思うと、
いささか頭痛がしてこないだろうか。


要するに日本語では、
俺とお前はどんどん行き来する。

こんな言語がほかにあるかというのは
ほとんど愚問であろう。
少なくとも私は、探す気にもならない。


次回につづく

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