2014年10月01日 (水) | Edit |
養老孟司著「無思想の発見」ちくま新書より(1)



日本人は無宗教・無思想・無哲学だという。
さて無思想とは、どのような事態か。

もしかするとそれは、
「ゼロ」のようなものではないのか。

つまりゼロとは、
「なにもない」状態をあらわしつつ、
同時に数字の起点でもある。

ならば、「思想がない」というのも、
ひとつの「思想」のあり方ではないか。

日本の風土が生んだ「無思想という思想」を手がかりに、
現代を取り巻く諸問題、
さらには、意識/無意識とはなにかを、

大胆に、されど精緻に考え尽し、
閉塞した現代に風穴を開ける。

(折り返しの言葉より)

無思想の発見 (ちくま新書)無思想の発見 (ちくま新書)
(2005/12)
養老 孟司

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自分とは

現代社会は、自分というものが「あって当然」
の社会である。妙な話だが、日本の世間に
自分なんてものが、はたしてあるだろうか。

自分があって当然と思うのは、
自分のほうから見ているからで、
世間から見たら、自分なんて、なにほどのものか。

ちょっと広げて、世界から見たら、
たぶん六十億分の一以下、
ほとんど点である。

でも、その小さな点のなかに、世界が入り、
宇宙が入ってしまう。宇宙の果てからその起源まで、
人間はともあれ考えてしまうからである。

それならその点はじつは巨大なのかと思うと、
そのくせこの世でわずかな時間を過ごして、
やがてまもなく消えていく。

だから仏教では無常迅速といい、真宗では
「朝(あした)に紅顔の美少年、夕べには白骨となる」
という。

「人生は歩いている影に過ぎない」
これは『マクベス』にある有名な台詞である。

「ただの三文役者、舞台の上で飛んだり跳ねたり、
定められた時間を過ごし、二度と現れることはない」
と続く。

・・・・・・
人生という「飛んだり跳ねたり」も、
眠っている間はお休みである。
思いのすべては意識がなす仕業である。

意識のないときの「自分」は、
他人が外から確認できるだけである。

他人だけが確認する「自分」なんて、
ずいぶん妙な自分だが、
それを人は身体と呼ぶ。

意識は途切れ途切れだが、
身体はおそらく継続的である。
その「途切れ途切れの点線をつなげて」、
現代人はしばしば自分そのものだと思い込む。

寝ている時間があるんだから、自叙伝の三分の一
くらいは空白の頁でいいはずである。
そんな自叙伝を私は見たことがない。

それでは話が変になるはずで、
だから現に変になっているのであろう。


そこでふたたび「自分」に戻って、現代の日本で、
その自分が具体的にどんなことになっているのか、
それをまず考えてみようというわけである。


次回につづく

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テーマ:仏教・佛教
ジャンル:学問・文化・芸術
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