2014年09月22日 (月) | Edit |
花山勝友著「親鸞・悪人のすすめ」大和出版より(10)


こちらが救ってくれと誰も
阿弥陀仏に頼んだ覚えはないのに、
勝手に救うといっている。

好きにすればいいじゃないかと
思っていたが、

ある日、自分が生きている喜びに
気がついたとき、自然に“何かに対して”
感謝の気持ちが湧いてくる。

それが「親のお陰」であり、
「あなたのお陰」であり、
「あの人のお陰」であるわけです。

「ご先祖様のお陰」であるかもしれないし、
「今日のご飯のお陰」であるかもしれません。

それをこのようにいちいちいっておれないから、
まとめて「なむあみだぶつ」という言葉で
あらわしたのです。

親鸞・悪人のすすめ―自分の心に嘘をついていないか親鸞・悪人のすすめ―自分の心に嘘をついていないか
(1995/10)
花山 勝友

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親鸞はさんざん苦労した結果、
ハッと気がついたのです。

誰も阿弥陀仏に救ってくれと
いった覚えがないのに、向こうから
大きな光を投げかけてくれている、と。

そのときの、心からの感謝の気持ちを
ひとことであらわしたのです。


ですから、『歎異抄』の最初のところで、
こういっています。

「念仏もうさむとおもひたつこころのおこるとき」

念仏しようと思う心が、“起こすとき”ではなく
“起こるとき”となっているのです。

起こるとき、というのは自然に感謝の念が
出てきているということです。


私は、この親鸞の思想は、
生きることに喜びを感じていない
いまの現代人にとって、相当なインパクト、
新鮮な衝撃を与えるだろうと思います。


いまの人は、ちょうどあの慢心した
孫悟空のように見えます。

ちょっと力を得たら、
己の力を過信して暴れまわり、
お釈迦様にも挑戦します。

「オレはひとっ飛びで地の果てまで来た」
と思ったら、しょせんは掌の中だった、と。

自分ひとりで生きている、
と自分の力を過信している人間は、
どんなに物があふれかえろうと、

どんなにお金を稼ごうと、
いっこうに満足することなく、したがって
感謝の気持ちが湧いてくることもありません。

少なくとも、自分の力だけで生きてきたんじゃ
ないのだ、と気がつけば、思わず、
「お陰さま」という言葉が出てくるはずです。


親鸞の南無阿弥陀仏は、
この「お陰さまで」
というのと同じなのです。

感謝の気持ちの象徴なのです。
さらにいえば、
この言葉を使う必要もないのです。

「お陰さま」でもいいし、
「ありがとう」でもいいのです。

アメリカの三歳の子どものように、
「サンキュー」でも同じことです。

大事なのはそうした言葉が
自然に出てくる心のほうです。


次回につづく

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