2014年01月22日 (水) | Edit |
花山勝友著「親鸞・悪人のすすめ」大和出版より(3)


娑婆との縁は誰でも尽きるのですから、
人間の臨終は、
昔から宗教の重大なテーマでした。

それは本来、
人が死んでから何らかの儀式を
行えばいいというものではありませんでした。

いま問題になっているターミナル・ケア(末期医療)
といわれる要素も充分に含んでいたのです。


来迎(らいごう)という言葉があります。
文字通り迎えに来るということです。

もし一日でも二日でも三日でも四日でも五日でも
六日でも七日でも、
一心不乱に南無阿弥陀仏を唱えるならば、

その人が命終わるときに臨んで、
これが臨終という言葉のもとに
なっているのですが、

そのときに阿弥陀仏は諸菩薩とともに、
その前にあらわれる、すなわち、
ちゃんと迎えに来てくれる。

だからその人は、
死ぬときに心を乱されることもなく、
つまりは安心して、

阿弥陀仏の極楽浄土に
生まれ変わることができる、
という考え方です。


みなさんも子どものときに体験があると
思うのですが、人間誰しも暗いところへ
行くと怖いものです。

とくに昔の便所など暗い廊下の
つき当たりなどにあり、
子どもはなかなか一人ではいけません。

怖いから誰かついてきて、
というような思いを
持たれた方も多いでしょう。

そうしたとき、母親に見ててあげるから
行っておいで、といわれると安心します。

見ててよ、見ててよ、などといって、
実際に母親が見ていなくても、見てくれている
と思うだけで、暗いところにも行けます。


人の死についても同じようなことだと思います。
誰だってまだ行ったことのないようなところへ
行くのは怖いのです。

そのときに、誰かが迎えに来てくれて、
さあ、いっしょに行きましょう、
あなたは一人じゃないんですよといってくれれば、
安心できることになります。


こうした具体的な考え方を提示した浄土真宗が、
庶民の間にパッと広まったというのは
実によくわかります。

阿弥陀仏が宇宙の真理そのもの
というような高次元の思想が、

徐々に一般の人たちに浸透していった原因は、
こうした具体的な姿を説いていったという
側面があります。


次回につづく


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