2013年12月22日 (日) | Edit |
花山勝友著「親鸞・悪人のすすめ」大和出版より(2)


昭和二十年代の日本人の平均寿命は男女とも
二十歳代だったそです。

戦後の食べられない状態とチフスを初めとする
あらゆる伝染病、乳幼児の死亡率がものすごく
高かったからです。だとすると、

鎌倉時代の平均寿命はおそらく十歳代でしょう。
その時代に九十歳まで生きたのですから、
私の知人の九十歳の老人以上に
「ものすごく長く生きた」と客観的にはいえます。


その親鸞が、
老いに対する苦しみを述べています。
「目もかすんで候、もの覚えも悪くなって候」と。

親鸞・悪人のすすめ―自分の心に嘘をついていないか親鸞・悪人のすすめ―自分の心に嘘をついていないか
(1995/10)
花山 勝友

商品詳細を見る


ですから、どんな人でも老いに対する
恐怖心というのは、八十歳になろうが、
九十歳になろうが、

今後、医学がどんどん進んで百二十歳まで
生きられるようになろうが、同じことなのです。

おそらく親鸞も、目も、もの覚えも悪くなった、
でも今日は大丈夫、明日も大丈夫だろう、
という気持ちで生きていたのでしょう。

しかし、親鸞の場合、その老いや死の不安の中に、
喜びも同時にあったのではないだろうか、
という気がしてならないのです。


親鸞の言葉にこういうのがあります。
「いまだうまれざる安養の浄土は恋ひしからず候事」

まだ行ったことのないお浄土が、
どんなにいいところだとしても、
ひとつも恋しくはない、

といい切っているのです。

これがなかったら、私は親鸞についてはいきません。
やっぱり、この世がいいのです。

もし親鸞が、死んだらお浄土へ行ける、
いいところなのだから早くいっしょに行こう、
というのであれば、私は、冗談じゃない、

行って帰ってきた人間などいないじゃないか、
そんなわけのわからないところに行くよりは、
しがみついてでも生きていたい、とそう思うでしょう。

ところが、まだ行ったことのないところは恋しくない、
と。ここに私は親鸞の人間性を見ています。

ただ、この言葉はこれで終わりではないのです。
そのあとがさらに心に響きます。

「なごりをしくさふらえへども、
娑婆の縁つきてちからなくしておはるときに、
かの土へまゐるべきなり」

どんなにこの世がすばらしく、死にたくない、
なごりおしいと思っても、この世との縁は
百パーセントの人間が尽きてしまうのです。

それが人間としてこの世に生まれてきた者の
運命なのです。尽きたときは、
いさぎよく浄土へ行こう。ということです。


有名なお坊さんで、ガンにかかり、あと半年だといわれ、
「わしゃ死にとうない」
といった人がいます。

私は、それが本当だと思うのです。
人間これでいいと思います。

その代わり、死ぬときは浄土に行けると信じておれば、
ずいぶん往生際が違うのではないかという気がします。


般若心経でいう空(くう)は、いってみれば不生不滅です。
人間なんて最初からあったわけでもない、
ないわけでもない。仮に和合してひとつの物体を
つくった、と。

しかし、これがいくら頭でわかっても、
「自分というひとつの意識を持った物体が、
生まれてから死ぬまで継続して、仮に存在している」
ということだけは事実なのです。

やはり、それが消えてしまうことに対する苦しみは
残ります。その残る苦しみを、
私は親鸞の言葉で解決しているつもりです。

・・・・・・
信仰が強ければ強いほど、阿弥陀仏の本願の力によって
浄土に生まれさせていただけると思うほどに、

安心感というよりも、
むしろ苦しみを喜びに変えることが
できるのではないかと思うのです。


次回につづく

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック