2006年05月23日 (火) | Edit |
男が女を口説く例で言えば、女を口説いているとき、
男にとっては、女を得ることそれ自体よりも、
「女にもてる男」だとみんなに羨ましがられ、

賞賛されることによって男としての自我を
確認することのほうが重要になりがちである。

講師の例で言えば、聴衆に自分の意見を公表する
ことよりも、うまい講演をして聴衆に賞賛される
ことによって自我を確認することのほうが
重要になりがちである。

そうなると、女を得るとか聴衆を説得するとかの
目標は忘れ去られ、見えているのは自分の
自我だけになる。


相手の女や聴衆は自分の自我を支える背景に
すぎなくなる。自分は相手の女や聴衆を背景に
押しやり、無視している。

しかし、自我の確認のためには彼らに
受け容れられることが必要である。

つまり、自分が無視しているものに
自分が受け容れられなければならない
わけである。

彼らに受け容れられるためには
彼らを重視しなければならない。
この矛盾と葛藤がますます緊張を高める。

・・・・・・
要するに、自我をもつ人間は、
何らかの目標をめざすとき、

同時にその目標を実現して他者の是認や賞賛を
得る自我をもめざさざるを得ないのであり、
それゆえ、人間に特有なし方で多かれ少なかれ
緊張せざるを得ないのである。

緊張は疲れるし、苦しい。快い緊張というものも
あるかもしれないが、それは目標が実現したときの
喜びに対する期待の快感であって、
緊張そのものは苦しい。

緊張が苦しいのは他者に承認されると予想される
固定したパターンに無理に自分をはめ込もうと
するからである。

自分という存在全体は、もちろん、そのような
固定したパターンにはいり切らず、
多大の部分がはみ出す。

そのはみ出した部分をそのパターンから排除し、
押しのけておかねばならないので、
緊張は苦しいのである。

緊張するとわれわれが固くなるのは、
固定したパターンを自分に押し付け、
自分で自分を固めているのである。

このことは、目標の実現に関して逆効果になる
ことがしばしばあるが・・・・・・。

このように疲れる、苦しい緊張の状態なんか
わざわざ求めなくてもいいではないかと考えられ
るかもしれないが、しかし、そうはゆかない。

すでに述べたように、自我は絶えずその存在価値、
正当性などを他者の承認を介して確認しつづける
のでなければ崩れてしまう不安定なものであるから、

絶えず何らかの目標をめざしていなければ
ならないのである。


・・・・・・
自我というものは、過去から現在を経て未来へと
流れる時間のなかにおけるひとつの形であり、
この形は過去に起源をもち、

未来にめざす目標を持っていてこそ
形として成り立つのであって、
過去を失っても未来を失っても崩壊する。

たとえば石は現在という時点だけでも
石として存在しているが、自我は石のように
空間に場所を占めているのではなく、

時間のなかに棲んでいるのだから、
時間が現在という時点に限定されたなら、
無に転落する。

それは、メロディというものが現在という
時点だけで成り立たないのと同じである。


次回につづく


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テーマ:哲学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
自我は人生の謎です。
 人生は無常です。無常のなかで、人間は、変わらない自我(自分)をみつけるのです。
 昨日は戻ってこないが、昨日のお陰で、現在の自分がある。昨日の記憶が、今日の自分を、同じ自我のもとに統合させている。
 現在の自我の記憶が、明日の自我を形作るだろうし、そして、明日の自我は、現在の記憶を統合するだろう。
 時間のなかで、周囲は無常にも、移り変わるが、自我だけは、記憶の基に、統合されていく。この今日の自分と現在の自分、更には明日の自分を、時間を超えて統合していくのが、自我の同一視、つまり魂のなかの愛の意識であるといえましょう。
 人間は、人生のなかで、自分という愛の統合体を学び、それを基にして永遠の命の土台となすのです。
 多様で、無常な人生を体験し、無常のなかから、統一し、調和した自分を見い出す。それこそが、時間を超えた自分だけの魂。無我の境地となるわけです。
 
 とどのつまり、他への愛情の行為が、そっくりそのまま自らの自分をつくることになるわけです。

 仏教で言う即身成仏です。
2006/05/24(Wed) 15:59 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
ショートしそう・・・
ろくろくの頭は日々、ショートショートしてます。

繰り返し繰り返し学ばないと分からなくなる。^^

ひろさちやさんの 四人の妻を持つ男の寓話は、
唯の寓話 たとえばなしです。
2006/05/24(Wed) 12:20 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自我を支える浮力?
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自我の確認をし 学びつづけ

自己をならふといふは、自己をわするるなり。
そののち自我を忘れ、無我に徹する

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
すべては無我なんだ

しかしながら無我でいつづけることは できない。

2006/05/24(Wed) 12:12 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ろくろくさんへ
やまんばの頭は、単純な回路しか使っていなかったので、ちょっと複雑になると、ショートしそうになってます。でも以前四人の妻を持つ男の寓話の解読で、あの世にいく時につき従うのは第4夫人の自我だけである(愛を育むことで、夫と一体になる)と、教えられたので自我が何かは、ますますわからないけど、ろくろくさんの発信されているブログを支えに学び,それぞれの道で体験していけることはやまんばの喜びとなりそうです。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。天は自ら助けるものを助ける。錬金術者さん、ありがとうございます。
2006/05/24(Wed) 11:11 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
自我が人間である証拠
 生きている間、人間は絶えず自我に曝されている。自我は人生においての羅針盤であり、確かに、人生の他者が自我を支えているといえます。
 生きるということは、筆者のいうように、自我の維持活動ともいえるでしょうね。

 では、なぜ、自我の維持活動が必要なのかというと、死んだときに、他者やそれを支えるもの、人生の局面が全て消えうせてしまうからです。

 そんなとき、自我自らの自我を支える浮力のようなものが問われるのです。

 天は自ら助けるものを助ける。
2006/05/24(Wed) 08:46 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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