2012年07月19日 (木) | Edit |
秋山さと子著「悟りの分析」朝日出版社 より


(ろくろく)わたしたちは過去の記憶や
未来への希望に動かされて生きています。

過去にとらわれて「持ちこし苦労」し、
未来に期待を持ちすぎたりして「取りこし苦労」するから、
そこに問題がでてくるわけです。

しかし多くの人はそういうことには
まったく気がついていません。


(ここから今日の本文です)

これらの無意識的な問題をしっかりと見つめて、
その理由を知り、
自分の心の中の問題を
すっかり解決することができれば、

人間は無意識的に
いつまでも同じ苦労を繰り返す
輪廻の世界から脱出して、

コンプレックスがわさわさと騒いで、
いつも揺れ動いているような状態がなくなり、
燃え上がるような本能の衝動の火が消えて、

永遠に静かな涅槃寂静の世界に
入ることができるわけです。

悟りの分析―仏教とユング心理学の接点 (PHP文庫)悟りの分析―仏教とユング心理学の接点 (PHP文庫)
(1991/06)
秋山 さと子

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こう考えると、仏教のものの考え方と、
精神分析はかなり似ているようです。

仏教では死ななければ涅槃に
入れないというのではありません。

生きている生身の人間としては、
決してやさしいことではありませんが、
生きているうちに、
これらの問題を体験的に理解することで
涅槃に入ることができるものと考えています。


たとえば、涅槃には有余依涅槃と
呼ばれるものがあります。

それは釈尊が、
実際に菩提樹の下で座禅をされて、
あかつきの星が輝きだすとともに、

これらの無意識的な問題をはっきり悟られて、
仏陀(すべてのことを知る覚者)に
なられたときのことを意味します。



仏教ではものごとに固有の実体がある
という考えを認めません。

たとえば、木なら木があるとしても、
仏教では、それだけで木があると
いうことにはならないのです。

わたしならわたしという人間が
その木を対象として認識して、
はじめてそこに木があることになるわけです。

ですから、ものは見るものと、
見られるものとの二つがあって、
はじめてあるということなので、

わたしという主体と木という客体との
関係が成立することで、
木が存在するといえるのだということです。

つまり、この中道の考え方では、
あらゆるものが相対的な関係の中で、
成立しているのであって、

それ自体では存在しない、
それが依って成立しているという
縁起の考え方です。

さらに『中論』には、

「縁起でなり立っているものを、われは空性と説く。
その空性がそのまま相対的な仮である、
またそれが中道である」

という有名な言葉があります。
この空性が『般若心経』にある
「色即是空」の空です。

つまり、ここではものごとは
相対的に存在しているけれど、
その全体の場を支えているものが空なのであって、

したがって、ものを見るときには、
一つ一つ実体のあるものとして考えないで、
主体と客体が一つの場を構成しているその場を
全体的にとらえなければ、真実はわからない。

実体としてはなにもないので、
ただ相対的な関係の中にあるのだ、
その空性とよばれる場の中に、

それぞれのものは存在していて、
それが仮としてのものの存在であるし、
それが中道のものの見方なのだということです。


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コメント
この記事へのコメント
ありのままの自分
あるがままの自分の心を
あるがままに見つめ続けること

その時、あるがままの自分を
あえて、変えようとかするのではなく

あるがままをありのままに
観察しつづけること

がよいのだと思います。

あるがままのありのままの自分を
理解することこそ
なにより大切なのです。







2012/07/25(Wed) 14:46 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
おはようございます。
自分の心を大きな器の泥水のように仮定した
(上水のきれいなところを通常の意識
、泥の部分は無意識)

やまんばの、たいていの日常は、上水がこそこそっと動くだけで、下の泥まで、影響することはない。

しかし、時々 予期もしないことが起き、下の泥の部分までかくはんされることがある。それは心に混乱をもたらすけど、困ったことに、それがないと、泥の原因は解明できない。

この泥の部分が曲者だと思う。
何代にも渡ってきた思考や習慣などが、幾重にも層となって沈殿されていると思えるからだ。

生きてる間に泥の部分が全て解明出来るなどと、やまんばは思えないけど、自分を見つめ続けることによって、そして、勇気をもって、この現実を生きることによって、泥の出来る仕組みみたいなものが解明されていくのだと思う。

ここに記載されているようなことを悟ることが果して可能かどうか?

頭でいくら考えても、上っ面でわかることしかできない。とにかく、真剣に生きることだ!
泥の部分に触れるくらい。


創作もそうにちがいない!
真剣に生きた結果の果実でないと、ただ「甘いね、おいしいね」で終わってしまう。
それではやまんばは困るのです。

そしてまた、ただ悟ること、優れた絵を創作することが人生の第一目的であってはならない。

今朝、わがままな自分に、そう言い聞かせております。
2012/07/24(Tue) 07:00 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
忘れっぽい天使より
今日、いいなと思ったところ

「やりたい」ではなく「やる!」と言い切った時 胸の奥でもう一人の自分が目を覚ます!


心からやりたいことが授かったとき 
どんなささいなことでも馬鹿にせず
くだらないと却下せず
きちんと聞き届け やり遂げてやろうとする

「自分が自分のみかたである」とは
そういうことではないだろうか。

ろくろくさん、ありがとうございます。

さあ、元気をいただきました!
今日も一日幸せに生きていけそうです^^^
2012/07/22(Sun) 06:30 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
輪廻の世界より脱出!
もし、今世で自分を見つめ、心の中の有り様をあきらかに出来たら、輪廻の世界から、脱出して、やまんばはもう人間に生まれ変わらなくても済むのかもしれない^^。

やまんばは時々自分の本当の心を、教え込まれた道徳心や、ありもしない常識などにすり替えることがあります。それは自分の心を映し出す周囲の観察や、ごまかさずに心を見つめることによって、かなり少なくなりましたが、すでに習慣となり、後から気付くことも多いです^^^

気付いたから、本能のままで生きることはないと思いますが、(それがどんなに魅惑的でも)、そういう心も空の雲のように、いつまでも自分の心に「在る」わけでもなさそうですし、いちいち取り合って、「取りこし苦労」や「持ちこし苦労」をせずに、「今、この瞬間」に生きていったらいいんだなあ・・と思っています^^^
でも、やまんばはすぐに忘れるし、弱いから困ります。
トホホのホ~~~~です。

2012/07/21(Sat) 06:03 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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