2012年04月19日 (木) | Edit |
秋山さと子著「悟りの分析」朝日出版社 より


煩悩は、性欲的なものばかりではありません。
自分の快楽をむさぼりたいという
利己的な想像から生まれてくるものです。

フロイトは、
幼児期の性欲説を考えて、

人間は最初はすごく自己愛的で、
自分の身体をもて遊びながら、
快楽を得ることばかり考えているものと
考えたのです。

つまり、フロイトによれば人間は
煩悩のかたまりのようなもの
と言えるでしょう。


しかし、しだいに現実の世界にふれるようになると、
自分の快楽を追う利己的な考えは抑圧されて、
無意識的な領域をつくりだします。

そして、その無意識がさまざまな
現実のものの上に投影されるので、
われわれは一つも本当のものを見ないで、

自分の無意識的なイメージによって
形を変えたものしか見ないというのです。

悟りの分析―仏教とユング心理学の接点 (PHP文庫)悟りの分析―仏教とユング心理学の接点 (PHP文庫)
(1991/06)
秋山 さと子

商品詳細を見る


これを仏教の方から考えてみると、

人間は煩悩にくもらされて、
自分の勝手な想像による観念でものを見るから、
実際にないものをあるように錯覚するのだ、
というように考えてもよいでしょう。


仏教では心のことをチッタというのですが、
チッタというときは、記憶や、
さまざまな抑圧されたものから浮かび上がってくる
ムードのような気分や、

意識的、無意識的なものが
複雑にからみあってできている
性格などを含んでいます。

つまり、チッタとは心の総体で、
過去からの積み重ねで
できているのです。


フロイトの考えも、
人間の心は、幼児期の性欲のように、
すでに忘れられているけれども、
さまざまな過去のできごとの積み重ねであって、

その中にははっきりと記憶に残っているものや、
抑圧されて無意識の底に沈み、
ときどきムードのようにあらわれて、

人の意識的な行動を邪魔するもの、
そして、それらによってつくられている
性格などから成立しているものです。


人は、そういう過去の積み重ねが影響して、
現在の判断を決定するわけですが、

仏教では、この現在の判断を、
チッタとは別にヴィジュニャーナ(識)とよびます。

また、仏教では、
この現在の判断に影響を与えるはたらきに
マナス(意)というものがあるといいます。


初期仏教の大切な経典『法句経』には、
「諸法は意(意志・マナス)よって支配せられ、
意を主とし、意より成る」とあります。

人間は自分の意志によって、
ものごとを選び、
判断するという意味です。

意志は、未来になにか目的を持って
それに向かって進もうとするときに
生まれるものです

この人間には意志があるという考え方は、
フロイトの弟子のアードラーの考えに
近いものといえます。

フロイトの考えた無意識は、
仏教のチッタのように、
過去の積み重ねから生まれるものですが、

アードラーは、それは
未来へのマナスによって
つくられるものと考え、

さらにユングは、
時と場合によって変化する
心の現在形であるヴィジュニャーナにこそ、
無意識の秘密があると考えたといえます。



次回につづく

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
ヴィジュニャーナ
ヴィジュニャーナの。「ヴィ」とは分けるという意味。
ジュニャーナは認識すること。

つまりヴィジュニャーナは分けて知ることであるから、
これは「分別心」といわれる。

一方「プラジュニャー」の、「プラ」とは偉大なという
意味で、「般若」と漢訳されて、「般若の智慧」のこと
をいう。こちらは「無分別心」といわれています。
2012/04/20(Fri) 17:45 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
イメージ
文章を読むと、なにかしら、イメージが浮かびます。

人間は、自分の無意識的なイメージによって形を変えたものしかみない・・同じ一つの世界にいながら、決して同じ世界には いないのですね。それを心して、自分や世界の様を見つめていきたいと思いました。

最後の、
さらにユングは・・・・・・という箇所の文章は、やまんばにとってたくさんの想像や色が浮かび、美しいと感じました。
2012/04/20(Fri) 06:26 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック