2011年12月01日 (木) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(23)


だから ひとは

からだからではなく

心からはじめなくてはなりません

思考と化した心

さまざまなかたちで表出される思考からはじめるのです

しかし たんなる精神集中は

思考をせばめ 制限し 不安定にさせるだけです



枯葉



むしろ 思考のはたらきに気づいているとき

集中は 自然なものとしておこってきます

このような気づきは

思考する人からはうまれません

思考する人は

選んだり 捨てたり

固執したり 拒絶したりします

しかし 気づきには

選ぶということがありません

外側のことにも気づいているし

内側のことにも気づいています

そのような気づきは

両方のあいだを行き来しながら

流れていきます

そこでは 外と内の分裂はなくなります



思考は 感じる力を破壊します

感じるとは

愛にほかなりません

思考がもたらせるものは

快楽しかありません

快楽を追いもとめると

愛は わきへ押しやられてしまいます

食べたり飲んだりする快楽は

思考のなかで たえずうみだされます

だから この快楽という

思考によってもたらされたものを

たんにコントロールしたり 抑圧するだけでは

なんの意味もありません

そこからうまれてくるのは

さまざななかたちの葛藤や強迫観念だけです



思考は 物質です

思考には

時間を超えたものを希求することができません

思考は記憶にほかならないからです

記憶のなかにある体験は

死んでいます

秋のおわりに舞い落ちる枯れ葉のように……



このようなことにすべて気づくなかで

注意が生まれてきます

注意は 不注意から生まれてくるものではありません

不注意というのは

快楽をもとめる からだの習慣を強め

感じる力を弱めてしまうものです

不注意が注意に変わることはありえません

不注意に気づくことが

注意です


瞑想瞑想
(1998/06)
J.クリシュナムルティ

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