2011年11月25日 (金) | Edit |
山崎龍明著「親鸞に人の生き方を学ぶ」中経出版より


親鸞の説いた、
浄土真宗の根本的な教えといえば
「悪人正機」でしょう。

「悪人こそ、阿弥陀如来の本願による
救いの対象である」ということです。

このとき、常に引きあいに
だされるのは、「歎異抄」の第三章です。


善人なほもて往生をとぐ、
いわんや悪人をや。
しかるを、世のひとつねにいわく、
悪人なお往生す、いかにいわんや善人をやと。

この条、一旦そのいはわれあるににたれども、
本願他力の意趣にそむけり。

そのゆえは、自力作善のひとは、
ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、
弥陀の本願にあらず。

しかれども、自力のこころをひるがえして、
他力をたのみたてまつれば、
真実報上の往生をとぐるなり。

煩悩具足のわれらは、
いずれの行にても生死をはなるること、
あるべからざるを、

あはれみたまいて願をおこしたもう本意、
悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、
もとも往生の正因なり。

よて、善人だにこそ往生すれ、
まして悪人は、とおおせそうらいき。

(現代語訳)

善人でさえ浄土に往生することができるのだから、
まして、悪人が浄土に往生できないはずがない。

ところが世間の人はつねに、
悪人でさえ浄土に生まれるのだから、
まして、善人が生まれるのはあたりまえである、
といつている。

この考え方は、もっともなようであるが、
阿弥陀如来の本願他力の教えの趣旨には
そむいているようだ。

なぜならば、自分の能力、力量をよりどころとして
善行に励む人は、阿弥陀如来の本願に自己の救いを
まかせる心もちが欠けてるから、
阿弥陀如来の救いの対象にはならない。

しかし、そのような、自己の力量を
たのむ心もちをひるがえして、
阿弥陀如来の本願にまかせるならば、
真実の浄土に生まれることができよう。

煩悩だらけの私たちが、
どのような行を試みたところで、
生死の迷いを離れることができないのを悲しんで、

願いを建立された阿弥陀如来の本意こそ
悪なる者を救って仏にするというものであり、
阿弥陀如来の本願にまかせる悪なる者こそ、
浄土に生まれるにふさわしい人間である。

したがって、
善人でさえも浄土に生まれるのであるから、
まして、悪人が浄土に生まれるのは
あたりまえのことである。


親鸞にとって、「悪人」とは、
自己自身の代名詞でした。

さきにみた親鸞の人間像は
「悪」と「愚」の洞察でしたが、
それは、同時に親鸞自身の姿でした。


親鸞に人の生き方を学ぶ―「他力」と「浄土の思想」がよくわかる本親鸞に人の生き方を学ぶ―「他力」と「浄土の思想」がよくわかる本
(2004/08)
山崎 龍明

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