2011年09月07日 (水) | Edit |
先日、ろくろくブログのフォロワー(登録して読んで
くれている人「登録読者」)の一人から

「私は 自分だけの足で歩いたことが一度もない。
自分で考え、自分の足で一度も歩いたことがない。」

といった内容のメールを頂いた。

まさか幽霊でもあるまいし、足が無いわけではないと
思いますが、「誰の力も借りずに自分だけの判断で、
何かをやり遂げたことがない」という意味なのだと思
います。

ということは、この方はいつも誰かに助けてもらって
いるわけですから、捉え方によってはとても贅沢な羨
ましいことのようにも思われます。

ろくろくブログ愛読者?であれば「自分」というものは
存在しないんだ、という仏教の「無我」説も何度か目に
しておられると思いますが、ここのところの理解が難解
で充分に捉え切れてないフォロワーの面々も多いことと
思います。

muga
横山大観「無我」

「自分=無我」といわれてもちゃんとこうして今、ここ
にあるじゃないですか」ということですよね。ですから、
この「無我」ということも含めて、今回は「自分」とい
うことについて、みなさんと一緒に学んでいきたいと思
います。

近頃は「子供も自立し、主人が定年退職したこの機会に、
離婚して、長年の夢だった『自分探しの旅』に出かけま
す。」といったご婦人もいらっしゃるかもしれません。

でも「自分=無我」であれば「自分探しの旅」に地の果
てまで出かけたところで見つかるものではありません。
自分が無いのですから?・・・・・

ろくろくブログを読んだり、タンブラーの「忘れっぽい
天使」を見た後は、見る前の自分とちょっとばかり変化
します。本を読んだり映画を見ても見る前の自分とは違
ってくる。

これらも自分が無いから変化するのであって、自分が変
化するのが面白いから、読書したり、ブログやタンブラー
を見たり、絵を描いたり、馬に乗ったりするのだと思う。

内田樹さんは彼のブログで、橋本治さんの言葉を借りて、

“「自己」というのは「土壌」のようなものである。

それ自体は「エネルギー」や「トラウマ」と同じく、
ある種の「仮説」であって、「はい、これ」と言って
取り出せるようなものではない。”

という。また

自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、
オレなりのこだわりっつうの?・・・そういった空語
に私たちの時代は取り憑かれている。

とも仰っている。

また、初めて「自分探し」という言葉を使ったのは、
中央教育審議会が 平成9(1997)年6月26日
「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について
(第2次答申)」に、

“教育は、「自分探しの旅」を扶ける営みと言える。
子どもたちは、教育を通じて、社会の中で生きていく
ための基礎・基本を見に付けるとともに、個性を見出
し、自らにふさわしい生き方を選択していく。”

とある。


さて、前置きはこれ位にして、次に、内田樹さんのブ
ログから「自分探し」をキーワードにして、検索され
たものをいくつかご紹介させてください。


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車中で橋本治先生の『ああでもなくこうでもなく3』を読む。
さすがに「濃い」。

感動した箇所は多々あるのであるが、次のところがいちばん「来た」ので採録させていただく。

「クロートというのは『技術』によって成り立っていて、その『技術』とは仮面のようなものである。(…)クロートというのものは、自分の技術で『自分』を覆い隠してしまう。

だから、クロートには『自分』がない。

有能な技術者が家に帰ったら『無能なお父さん』になってしまうことがあるのもそのためで、有能なクロートの専業主婦が、ときどき『私の人生ってなんだったの?』と悩んでしまうのもそのためである。

しかし、それでいいのである。クロートにとって『自分』とは、『自分の技術』という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体『自分』ではないのである。

一本の樹木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが『自分』という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。

だから、クロートは技術しか問題にしない。クロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。(…)

ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは『自分』を覆い隠すことが出来ない。すぐに『自分』を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう。『自分とはなんだ?』などと。

クロートはもちろん『自分とはなんだ?』なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、『自分の技とはなんだ?』と考える。『自分のやってきたことはなんだ?』という悩み方をする。

クロートが『自分とはなんだ?』と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートはそれだけで自殺してしまう。」(橋本治『ああでもなく、こうでもなく3 「日本がかわってゆく」の巻』、マドラ出版、』2002年、347-8頁)

どうして「来た」かというと、ほとんど同じことばを「ビジネスのクロート」である平川くんの『反戦略論』(もうすぐ洋泉社から発売)の中で読んだばかりだからである。
平川くんはこう書いている。

「あるときわたしが社長をしていた会社の女子社員のひとりが、会社を辞めたいというので、ではそのわけを聞かせてくれないかということになりました。

彼女が言うには、『この会社では自己実現できない』というものでした。『えっ? 自己実現て何なの』というのがわたしの最初の反応でした。

当時社員数は20人ぐらいだったでしょうか。わたしの会社はおそろしく定着率の良い会社で、いわゆる寿退社以外にはほとんど会社を辞めようなんていう人はいませんでしたので、この女子社員の小さな『反乱』はちょっとした風を社内に持ち込みました。

自己実現とは、自己の能力や可能性の全てを開花させるというような意味なのでしょうが、それがどのようにすれば『実現』できるのかについては、誰も答えをもっていないような欲求であるといわねばなりません。

なぜなら、能力も可能性も、それが実現してみて初めて了解できるものであり、事前にそれぞれの人に登録されているリソースではないからです。

『この会社では自己実現できない』と言った社員は、『別の会社でも自己実現できない』はずです。自己実現は、その定義からして環境によって実現しうるものではなく、自己実現といったものを実感したときには、すでに環境も変化しているというように、すべては事後的にしか実感できないものであるからです。

いや、事後的にも実感できないといった方がいいのかもしれません。自己実現とは将来実現する能力や可能性なのではなく、ただ、現在の欠落感としてしか実感できないものであるといえるのではないでしょうか。」

「自己実現」とか「自分探し」ということばが、現代において支配的なイデオロギーの産物であり、これはあまりよい結果をもたらしていないということは、私もこれまであちこちで書いてきたけれど、期せずして私の敬愛するふたりの書き手も同じことを述べている。

「日本が変わってゆく」の論―ああでもなくこうでもなく 3「日本が変わってゆく」の論―ああでもなくこうでもなく 3
(2002/05)
橋本 治

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「自己」というのは橋本先生が言うとおり「土壌」のようなものである。
あるいは「繁殖能力」(fecondite)といってもいい。
そこ「から」かたちあるものが出てくるのであって、それ自体は「エネルギー」や「トラウマ」と同じく、ある種の「仮説」であって、「はい、これ」と言って取り出せるようなものではない。

「そこから出てきたもの」を見てはじめて事後的に「こういうことができる素地」というかたちで「自己」は認証される。
でも「素地」というくらいだから、どんなものだかよくわからない。
定量的に語ることはたぶん誰にもできない。そこから生えてきた樹木のクオリティを見て、土壌としての生産性や通気性や保水力を推し測ることができるだけである。

「この会社では自己実現できない」という言明を発した人の場合、「そういう会社をみずから選択して、そこで『無駄な日々』を便々と過ごしてきた自分」というのが、とりあえずはそのひとの「樹木」である。そして、そのようなものしか育てることができなかった「土壌」がそのひとの「自己」である。

人間はその意味では、そのつど「すでに自己実現してしまっている」のである。

もし、そこで実現したものがあまりぱっとしないと思えるなら、樹木が生え来た当の足下にある「土壌」の肥沃化のためのプログラムをこそ考慮すべきだろう。

「土壌の肥沃化」なんていうと、すぐにあわてものは「化学肥料」や「除草剤」の大量投与のようなショートカットを思いつくだろうけれど、そういうのがいちばん土壌を痛めつけるのである。

土壌を豊かにするための方法はひとつしかない。
それは「繰り返し」である。

若い人にはわかりにくいだろうけれど、ルーティンをきちきちとこなしてゆくことでしか「土壌を練る」ことはできない。
土壌肥沃化に特効薬や即効性の手段はない。
土壌そのものが繁殖力を拡大再生産するようにするためには、一見すると「退屈な日常」としか見えないようなルーティンの繰り返ししかないのである。

その忍耐づよい労働をつうじて土壌の成分のひとつひとつがやがてゆっくり粒立ち、輝いてくる。
「練る」というのは、そういうことである。
「技術」というのは、千日万日の「錬磨」を通じてしか身に付かない。
ハウツー本を読んでたちまち身に付くような「技術」は三日で剥がれるし、バリ島やニューヨークに行ったり、転職するだけで出会えるような「ほんとうの私」からはたぶん何も生えてこない。

2004年09月27日 「濃いーーい」週末より
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日本人のいう「自分らしさ」の追求というのは、自己探求というよりは、どちらかというと「いかに『これまでの自分』から離脱するか」という自己離脱に軸足を置いている。

現に、「自分探し」をする人はだいたいそれまでやっていた仕事を辞め、それまで住んでいた街を離れ、それまで付き合っていた人間と縁を切ろうとするものである。
これは自己探求というよりはむしろ「自己リセット」というに近いであろう。

自己探求と自己放棄が同義であることを誰も「変」だと思わないというのが属邦人の特徴である。

繰り返しいうように、これは別に悪いことではない。
ただしグローバル・スタンダード的にいうと、こんなことを国是としている国は日本以外には存在しない。

「リセット」の誘惑に日本人は抵抗力がない。
「すべてチャラにして、一からやり直そうよ」と言われると、どんなことでも、思わず「うん」と頷いてしまうのが日本人の骨がらみの癖なのである。

「維新」といわれると思わず武者震いし、「乾坤一擲」とか「大東亜新秩序」とかいうスローガンに動悸が速まり、「一億総懺悔」でも「一億総白痴化」でも「一億総中流」でもとにかく「一億総」がつくとわらわらと走り出し、「構造改革」でも「戦後レジームからの脱却」でも、とにかく「まるごと・一から・刷新」と聴くと一も二もなくきゃあきゃあはしゃぎ出すのが日本人である。

それはそれまでの自分のありようと弊履を捨つるがごとく捨てるのが「自分らしさの探求」であり、「自己実現」への捷径であると私たちが信じているからである。

繰り返し言うが、こんな考え方をするのは世界で日本人だけである。
私はそれを「属邦人性」と呼んでいるのである。

私はこの日本人の腰の軽い属邦人性のうちに日本人の可能性と危険はともに存すると考えている。

可塑的であるというのはよいことである。
だが、ことの功罪を吟味せずに「・・・はもう終わった」で歴史のゴミ箱になんでもかんでも捨ててしまうのは愚かなことである。

というわけで私がこの数年ご提案しているのは、「『・・・はもう終わった』が理非の判定に代わる時代はもう終わった」というものである。

ヒット1000万のお礼に代えまして (内田樹の研究室)より
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自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、オレなりのこだわりっつうの?・・・そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。

これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の自動的帰結である。
消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。
当たり前のことだが、消費単位が小さくなれば、消費単位の個数は増えるからである。

四人一家が消費単位であるばあいには家に一台テレビがあればすむが、四人がそれぞれに「私は自分の見たいものを見たい」といってプライベートテレビを要求すれば需要は四倍になる。

人間の頭数がそれほど増えないときは、消費単位を小さく切り分けて、個数を増やすのが早道である。
80年代のはじめバブル初期の消費文化の旗手だった糸井重里の最初の小説のタイトルは『家族解散』であった。
思えば、これこそが消費文化が消費単位の砂粒化を宣言した歴史的コピーであった。

家族解散
家族解散 (新潮文庫)

家族解散は消費単位の爆発的増殖をもたらした。
解散した家族ひとりひとりはそれぞれに住居を求め、それぞれに鍋釜や冷蔵庫やクーラーや自動車を求めたからである。
「自立」はマーケットサイズを拡大する。

だから、80年代以降メディアは(自立するだけの社会的能力のないものたちにまで)家を出て一人で暮らすことを推奨したのである。

この時期に70年代に流行した「同棲」に対する社会的評価が著しく低下したことをみなさんもご記憶であろう。
理由はご賢察のとおり。「自立」していた男女に「同棲」されてしまうと市場規模が縮むからである。

そうやって日本人たちは、家族を破壊し、カップルを解体し、砂粒化した個が、(未来を担保にいれさえすればじゃんじゃん貸してくれる)借金を享楽的に蕩尽することをほとんど「国民の義務」でもあるかのように粛々と実践していったのである。

やがてバブル経済が破綻したあとも、個の砂粒化趨勢はとどまらず、それどころかグローバリゼーションの競争原理は国民たちを「自己決定・自己責任・自分探し」というさらなる消費単位の規模縮小へと追いやったのである。
「自我の縮小」「自我の純化」は市場が私たちに要求したものである。

買い手の自我の縮小を商品の売り手が要請するのは、自我が小さければ小さいほど、「こだわり」はトリヴィアルなものとなり、消費者の「こだわり」が瑣末化すればするほど、それは商品製造の工程を減らすことに結びつくからである。

例えば、「雨具」というものを商品として提供するとき、「蓑」や「番傘」や「防空頭巾」や「トレンチコート」を提供しなければならない場合と、布の色と模様だけの違う「傘」を揃えればいい場合では「雨具」メーカーの「雨具」製作のコストの間に千里の逕庭がある。

99%の工程が同一で、最後の仕上げの1%だけ工程の違う「ほとんど同じ商品」が「まったく違う商品」として認知されるという消費者サイドの「差異コンシャスネス」の高さは、生産者からすればこれほどありがたいものはない。

「自我の縮小」は生産者サイドからの強い要請にドライブされたのである。

「オレなりのこだわり」のある人間は、自分とよく似ている人間(端から見るとそっくりにしか見えない)との間の差異と共生不能をうるさく言い立てる。

それは「キミにそっくりな個体がいくらもいるよ」という指摘ほど彼のアイデンティティを脅かすものはないからである。

だから、「縮小する自我」にとって家族こそはまっさきに排除されなければならない他者となる。
それは生理学的組成も言葉づかいも価値観も身体運用も「そっくり」である家族の存在そのものが彼の唯一無二性を否定するからである。

だから、縮小する自我たちにとっては口うるさい配偶者も手間のかかる子どもも介護を要する親もおせっかいな隣人も口やかましい上司もしがみつてくる部下も、すべては「自己実現・自分らしさの発揮を阻む」他者である。

主観的には彼らが「自分とぜんぜん違う」からなのであるが、実際には彼らが「自分にそっくり」だからである。
限りなく自分に近いものを否定するところから始まる「縮小する自我」の自己同一性形成は思いがけない方向に突き進んでゆく。

というのは、「縮小する自我」にとっては、自分自身の凡庸さや、身体の不調や、容貌上の欠陥や、贅肉や、臓器の異常までも「自己実現を阻む」他者にカウントされるからである。
それは「自分の一部分」であり、それとなんとか折り合ってゆくしかないという考え方は彼には浮かばない。
彼の幻想的なセルフイメージになじまないすべての彼自身の属性は、「自分らしくないもの」として否定される。
彼が否定するのは自分自身の心身の「部分」だけではない。

ときには自分を「まるごと」否定することだって辞さない。
「縮小する自我」はどうも気分がイラつくぜ、というようなときには通りすがりの子どもを刺し殺したりする。
「むかつきの解消を求める今の私」は、それからあとの逮捕取り調べ裁判懲役・・・という一連の経験に耐えねばならない「未来の私」を「自我」にカウントしていないからそういうことができるのである。

彼は裁判では「あのとき僕の中にネズミオトコが入ってきて、『殺せ』と命じたのです。やったのはネズミオトコであって、僕じゃありません」というような遁辞をおそらく主観的には非常にリアルなものとして口にすることになるだろう。
どうして「僕」じゃない人間が犯した罪を「僕」が引き受けなくちゃいけないんだ、と彼は考えるだろう。
まったく理不尽な話だ。

こんなふうに自我は限りなく縮んでゆく。

社会から与えられる自分についての外部評価を承認できないもの中には、「諸君の評価は私の『自分らしさ』を満たしていない」というメッセージを発信するために、自殺するものさえいる。
ここではもう「私の存在」さえも「縮小する自我」の「自分らしい」メッセージの運搬具として道具的・記号的に利用可能されているのである。

「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は論理的には「自殺」ということになる。
というのも「自殺」こそは自己決定・自己責任の究極のかたちだからである。
誰も私に代わって自殺を決定したり、自殺を実行することはできない。

自殺する子どもたちの「遺書」にはしばしば自殺を通じて社会にある種のインパクトを与える希望が書き記されている(自分をいじめた級友に「罰」が下ること、自分を救えなかった教師や学校が社会的指弾を受けること)。
生きている自分より死んだ自分の方が「より自分らしい自分」であるというこの自己意識の転倒は「自我への執着」がもたらす、痛ましいけれども、論理的帰結なのである。

自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであるという「常識」が私たちの時代には欠落している。
自殺する子どもたちは「常識」のない時代の犠牲者である。
だが、それが「常識」でなくなったのは、繰り返し言うが、もとはといえば市場の要請に私たちが嬉々として従ったせいなのである。

というような話(とはだいぶ違う話)をする。
へろへろになって家に戻り、下川先生のところにお稽古に行って、楽の残りの道順を稽古する。
二段の拍子をちゃんと覚えてきたので先生に「よくお稽古してきたね」とおほめ頂く。
「おいらはドラマー」ですからグルーヴはまかせておいてください。
しかし、この忙しい間を縫って、よく楽の稽古まで手が回るものである。

さらにへろへろになって帰宅。
かんきちくんからもらった長浜ラーメンを使って「麻婆豆腐麺豚骨味」というものを作って食す。
美味なり。

満腹したので、寝転がって『Good night and Good luck』を見る。
ジョージ・クルーニーの監督作品である。
クルーニーはおそらく先達としてクリント・イーストウッドを意識しているのであろう。
「洗練された映画」というものについての彼なりの回答である。
たいへんよい映画であるので、テレビ関係者にはぜひ見ていただきたい(見ている人はきわめて少ないだろうが)。

もし、日本にこれから「マッカーシー」が登場したときに、報道の自由を守るために身体を張ることのできるテレビマンがいったい何人いるだろうかと考えて、いささか暗い気持ちになる。

心療内科学会にて (内田樹の研究室)より
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「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という聖句をふつう私たちは「自分を愛することは容易であるが、隣人を愛することは困難である」と解する。

私たちは「自分を愛する仕方」は熟知しているが、「隣人を愛する仕方」はよく知らないと考えている。
だが、それはほんとうだろうか。
私たちは自分を愛する仕方を熟知していると言えるであろうか。

例えば、私たちの国では年間3万人を越える人々が自殺をしている。
彼らは「自分を愛している」と言えるだろうか。

家族の愛や友人から信頼を失って、「こんな私に生きている価値はない」と判断して自殺する人がいたとする。
その人の場合、「こんな私に生きる価値はない」と判断した「私」とその「私」によって死刑を宣告された「私」の二つの「私」のどちらが「ほんとうの私」なのであろう。

それほど極端な例をとらなくても、「自己卑下」や「自己嫌悪」は私たちにとって日常茶飯事である。
そもそも向上心というもの自体が「今の私では満足できない」、「私自身をうまく愛せない」という事実から推力を得ているとは言えまいか。
だから、もし「社会的上昇」や「他者からの敬意」を努力目標にすることが万人にとって「よいこと」であるというのがほんとうなら、私たちは隣人に対しても「もっと自分を嫌いになれ」と勧奨すべきだということになる。
論理的にはそうなる。

そして、隣人が自分自身を嫌いになるためにいちばん効果的な方法は「現に私はお前が嫌いだ」と言ってあげることである。
そうですよね。

人から「愛している」と言われて、「このままではいけない」と生き方を改める人間はあまりいない。
でも、人から「嫌い」と言われたら、よほど愚鈍な人間以外は、すこしは反省して、生き方を変える機会を求める。

だから、隣人たちの向上心を沸き立たせ、彼らが自己超克の努力に励み、ついには「自分探しの旅」に旅立るように仕向けるためには、隣人に向かって、「お前なんか嫌いだ」と言ってあげることはきわめて有効なのである。
現実に私たちは日々そうしている。
気がついていないだけで。

だから、まわりを見まわしても、「自分を愛する」仕方を自然に身につけている人は少ない。
それよりは権力や威信や財貨や知識や技芸によって、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」という迂回的なしかたでしか自分を愛することのできない人間の方がずっと多い。

だが、「他人から承認され、尊敬され、畏怖される」ほどのリソースを所有している人間はごく少数にすぎない。
だから、結局、この社会のほとんどの人間はうまく自分を愛することができないでいるのである。

資本主義市場経済というのは「私はビンボーだ」という自己評価の上に成立している。
「私が所有すべきであるにもかかわらず所有していないもの」への欲望に灼かれることでしか消費行動はドライブされないからである。

同じように、高度情報社会も格差社会も知識基盤社会も、どれも「私は今のままの私を愛せない」という自己評価の上に成立している。

「私は私によって愛されるに足るほどの人間ではない」という自己評価の低さによって私たちは競争に勝ち、階層をはいのぼり、リソースを貯め込むようになる。
私たちが私たちを愛せないのは、私たちのせいではなくて、社会的なしくみがそうなっているから当然なのである。

麻生首相は先日の記者会見で「子どもの頃からあまり人に好かれなかった」とカミングアウトしていた。
私はこれは「正直」な告白ではあるが、「事実」の一部しか語っていないと思う。
人に好かれなかった以上に、彼は「自分が嫌い」だったのである。

「こんな自分が他者から愛されるはずがない」という自己評価の切り下げを推力にして、彼は向上心にエネルギーを備給し続け、ついに位人臣をきわめた。
彼は現代的な人間形成プロセスのわかりやすい成功例だと私は思う。
彼がこれほどメディアで叩かれながら、少しもひるまないのは、どんなメディアの記者も「麻生太郎が嫌い」という点において麻生太郎に及ばないからである。

閑話休題。
私たちの生きている時代は「自分を愛すること」がきわめて困難な時代である。
自分を愛することができない人間が「自分を愛するように隣人を愛する」ことができるであろうか。
私は懐疑的である。

マタイ伝の聖句には「主を愛すること」「私を愛すること」「隣人を愛すること」の三つのことが書かれている。
本学の学院標語は「愛神愛隣」のみを語り、「愛己」については言及していない。

それは「愛己」が誰にでもできるほど容易なわざであるからではなく、その語の根源的な意味において「自分自身を愛している人間」がこの世界に存在しないことを古代の賢者はすでに察知していたからではないかと私は考えるのである。

というわけで、卒業に際して、卒業生のみなさまにひとこと「むまのはなむけ」とてタイトルのごとき一句を掲げたのである。

「人を愛すること」自体はそれほどむずかしいことではない。
けれども愛し続けることはむずかしい。
四六時中いっしょにいて、その欠点をぜんぶ見せつけられて、
それでも愛し続けることはきわめてむずかしい。
けれども、努力によって、それも可能である。

そのように人を愛することが、
「だいたい10人中7人くらいについてはできる」ようになったら、
その人は「自分を愛する」境位に近づいたと申し上げてよろしいで
あろう。

あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい (内田樹の研究室)
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「自分らしさ」や「自分探し」という、ある意味非常
にプライベートなことと捉えられている言葉が、実は、
現代社会によって様々に利用され、色付けされたもの
であった、ということに大変驚かされます。

思わず引き込まれてしまった内田樹さんの言葉の中から、
幾つかを下にチョイスしてみました。


自己探求と自己放棄が同義である

「自分らしさ」の追求は、自己探求というよりは、
「いかに『これまでの自分』から離脱するか


「自己実現」とか「自分探し」は、あまりよい結果を
もたらしていない。

自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、
オレなりのこだわりっつうの?・・・そういった空語
に私たちの時代は取り憑かれている。

糸井重里の『家族解散』、これこそが消費文化が消費
単位の砂粒化を宣言した歴史的コピーであった。

縮小する自我たちにとっては口うるさい配偶者も
手間のかかる子どもも介護を要する親も
おせっかいな隣人も口やかましい上司も
しがみつてくる部下も、
すべては「自己実現・自分らしさの発揮を阻む」
他者である。

「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は
論理的には「自殺」ということになる。

資本主義市場経済というのは「私はビンボーだ」とい
う自己評価の上に成立している。

同じように、高度情報社会も格差社会も知識基盤社会も、
どれも「私は今のままの私を愛せない」という自己評価
の上に成立している。

私たちの生きている時代は「自分を愛すること」がきわ
めて困難な時代である。



日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
(2009/11)
内田 樹

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内田樹さんの入門書に最適の一冊ではないかと思う (ろくろく)




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コメント
この記事へのコメント
お月見^^^^
  でた~でた~~つ~き~が~~

  まあるい まあるい まんまるい~~~

  ぼ~んのようなつ~き~が~~~
2011/09/12(Mon) 18:59 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
土壌を練る
自己という土壌を豊かにするための方法は
ひとつしかない。
それは「繰り返し」である。

日常的な仕事、掃除、洗濯などの日課を
きちきちと「繰り返し」こなしてゆくこと





2011/09/11(Sun) 19:24 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ゴーヤの漬物
ポリポリ ポポッ ポリポリ

ろくろくさんの「ゴーヤの漬物」を読みながら、やまんば、多いに反省しました。いろんな気持ち、配慮、思いやりを感じたからです。内田樹さんの文章をちょっと読んだだけで、「わかりにくい文章」だと言って、よくわかろうともしなくてすみませんでした。

では続きをもう一度、
ポ ポポ、 うぐっ ポポリ、ポリポリ・・・

今日は、 ここがちょっと、おいしく感じる。
「くりかえし・・・一見すると、{退屈な日常}としかみえないようなルーティンのくりかえし・・・これが 練る 」
練習・・という言葉の意味はこういうことだったのか。。
ゴルフでも書でも、何回も何回もむなしく感じるほど、繰り返していたら「おおっ!!」という瞬間がやってくる。
そうかあ、やまんばは土壌を練っているんだ。
がんばろう!!!^^^^


しかし・・・・自己実現で 「わかる」 世界を言葉に置き換える・・ということ自体が、とてつもなくむつかしいことなのではないのだろうか?????
2011/09/09(Fri) 07:01 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
今回ご紹介した内田 樹先生の文章は
この手の内容としてはとてもわかりやすいと
思います。

えらそうに聞こえたら申し訳ありませんが
今回の「自分探しの旅」はとても大切なことが
網羅されていると思います。

まだ読んでない方は
時間を作って
是非じっくりとお読みください。



2011/09/08(Thu) 10:45 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ゴーヤの漬物
ろくろくの最近の癖に、人と話すとき
「ようするに・・・・・」
と言うことが多いなというのに気づいた。

「要するに、簡単にまとめて言えば」という意味
なんだが、せっかちというか、時間がないというか、
あわただしい。

「ようするに、どういうことですか?どうすれば
いいのですか?」という質問もよくされる。

要点をわかりやすく噛み砕いた文章がもてはやされて
いる風潮もある。それはそれでいいのだけれど、
「要するに、簡単にまとめて」言えない大切なことだ
ってあるのだ。

今年のお中元に九州の方から「ゴーヤの漬物」を沢山
頂いた。我が家の誰も口にしない。にがくて、癖があ
って食べにくいからだ。

少しずつ食べているうちに、このにがさがたまらなく
美味に感じられてきて、気がついたら全部食べ終えて
しまった。

一見、理屈ぽくて、簡単には理解できない文章であっ
ても、少しずつ読み進んでいくうちに、あっそういう
ことかぁ~とわかったときの感動は格別だ。

ろくろくは今まで「わかりやすくする」ことばかりに
こだわりすぎていたんだなあと思い始めている。

とっつきにくくて、癖があり、しかも長々と書かれた
文章であっても、これからは大切な言葉であったら
遠慮なく紹介して行こうと思う。

やまんばさんやフォロワーの方々がすぐに理解できな
くてもそれはそれでいいのだと思う。

2011/09/08(Thu) 10:32 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
横山 大観の「無我」
この絵、好きです。
偉~い大観さんが、幼い子供になって立っておられるようで、微笑ましくて好きです。だって、この子の目、大人の大観さんの目と、同じだと思われませんか^^^
2011/09/07(Wed) 06:39 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
おはようございます。
長い記載、読ませていただきました。

言葉が多くて、やまんばにはわかりにくい種類の言葉の群れでした。

やまんばにとって、自己実現というのは、
理屈を遥かに超えて、自分の内側のバランスが壊われて、そのカケラを探し求めていく、やむにやまれぬ旅だったようにおもいます。
それは、自分の置かれている環境などで壊れるような柔な要求ではなく、自分の全存在をかけて、探し求める強い渇きだと思います。

「自己探求と自己放棄が同義である」
と書かれていましたが、それがわかるのは、自己探求の苦しい旅が終わって、初めて「わかる」ことだと思います。
なお、今の時代が自分探しとかに取り憑かれていると書かれてありましたが、それは、たくさんの方が、衣食住の苦しみから、解放されたからだと思います。脳が閑になったのだと思います^^^^それを商売に結び付けたのは、きっと後からだったのではないでしょうか。

音楽でも文章でも、各々グループがきっとあるのですね・・・・
(その現わし方が難解であろうと、単純であろうと、全く別問題。)

この音楽が好き。
この方の文章には感動した!
良い絵だね。シビレルネ^^
美しい景色、可愛い動物・・不細工だからこそカワイイ、などなど、
そこには自分だと思いこんでいるもの(思いこみたいもの)が見え隠れしている^^^
かくれんぼしている。

マタイ伝の聖句
「主を愛すること」「私を愛すること」「隣人を愛すること」
・・やまんばはそれはバラバラの行為ではなく、みんな一つのことなのだと思えるようになってきました。

幼稚な文章でごめんなさい。
わからないくせにわかったように書いてまたまた恥ずかしい^^^

かくれんぼはまだまだ続く。
いまでは楽しい遊びです。
2011/09/07(Wed) 06:28 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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