2011年08月06日 (土) | Edit |
内田樹さんの「街場の現代思想」を読んでいて、

“いま評判の酒井順子『負け犬の遠吠え』を読む。
たいへん面白い。じつに「クール」である。”

とあった。で、さっそくアマゾンで『負け犬の遠吠え』を購入
して先ほど読み終えた。ホントに面白かった。

この単行本は、2003年10月に発売されて、当時大変な話題
を呼んだ。が、今読んでもぜんぜん色褪せてなくて、一気
に読み終えた。

「35歳~49歳、未婚、子ナシ」の女性が「負け犬」で、
「既婚、子アリ」の女性が「勝ち犬」なんだそうである。

ろくろくの周りにもこの「負け犬」が大発生していて、
いささか驚いていたが、そのワケが解ってきた。

「オスの負け犬」というのもあって、男の多くがこれに
該当するようだ。

まだ読まれてない「負け犬」は、この機会に、是非
読まれることをお勧めする。


街場の現代思想 (文春文庫)街場の現代思想 (文春文庫)
(2008/04/10)
内田 樹

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負け犬の遠吠え (講談社文庫)負け犬の遠吠え (講談社文庫)
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さて、内田樹さんの日記「内田樹の研究室」の
2004年1月30日と2月2日のところを次に転載させ
て頂いた。ごらんください。


2月2日

大学院の美人聴講生E田くんからメールが届く
(「美人聴講生」と聴いて、一瞬「私のこと?」
と思ったかもしれないが、君のことではない)

今般の「負け犬」をめぐる当事者からの発言のひ
とつの代表例としてご紹介しておきたい。

 

先生こんにちは。

30代、未婚、子ナシのE田です。

現役の負け犬としては、自分のことが書いてある
ようなものなので先生の読みとは違うかもしれな
いんですけど、

先生がおっしゃるように、育児って、それのどこ
が勝ち?というくらい大変なことだと思うんです。

だから勝ち犬のみなさんが、ユニクロを着て育児
に追われ、すておく(『素敵な奥さん』)の特集
で見た「ひきにくのおかず1週間」で家計をやりく
りしている時に、5万円の靴をポンと買い、1本千
円(両手で1万円)のネイルアートを施している
負け犬を見るともしかしたら、悲しい気持ちにな
るかもしれません。

(負け犬の散財には負け犬なりの事情があるんで
すけどね、ほんとに)

そんな時、「でもあの人たち(負け犬たち)は女
の幸せを知らないんだわ、それに比べて私って幸
せ(勝ち)」と思って育児に励んでくださるのな
ら私は喜んで負け犬となりましょう、腹を見せ、
きゃいーんと鳴きましょうと思うんですが。

だって子どもを生んで育ててくれるなんて有り難
いじゃないですか。

それと、最終回の授業の「文化資本」の件で思っ
たんですけど、

文化って要するに暇つぶしみたいなものですよね。

食べることに必死な時代って文化はなかなか難し
いですし。

これからの文化の担い手として、育児と家事に追わ
れることのない負け犬ってけっこういいと思うんで
す。

サカジュンも言うように、すでにそういう傾向が・・・

で、負け犬はますます内省的に生き、低方婚の男性
からは遠ざかり。

やっぱり再生産は無理ですね・・・失礼しました。

 

ウチダが「おお」と膝を打ったのは、「負け犬=文
化の担い手」というE田くんの着眼点についてであ
る。

なるほど。

そのとおりだ。

そういえば酒井さんも「負け犬」たちがグルメ、海
外旅行に始まり、歌舞伎、オペラ、狂言、バレエな
どの伝統エンターテインメントから、茶道華道書道
香道合気道にいたる無数のお稽古事に励んでいるこ
とを指摘されていた。

私はふと「ランティエ」という言葉を思い出した。

rentier とは「(主に国債による)金利生活者」の
ことである。

ご存じのとおり、ヨーロッパの家は石造りで、人々は
そこで祖先から受け継いだ家具什器をそのまま使って
暮らしている。

そして、あまり知られていないことであるが、ヨーロ
ッパではデカルトの時代から1914年まで、貨幣価
値がほとんど変わらなかった。

ということは、先祖の誰かが小金を貯めて、それでア
パルトマンと国債を買って遺産として残すと、相続人
は(贅沢さえ言わなければ)生涯無為徒食することが
できたのである。

そういう人々がフランスだけで何十万人か存在した。

『彼方』のデ・ゼルミーや、『モルグ街の殺人』の
オーギュスト・デュパンはこの類である。

仕事をしないでひねもす肘掛け椅子で妄想に耽ってい
るという点ではシャーロック・ホームズだってそうだ
し、本邦でも探偵は明智小五郎にしても金田一耕助に
しても「高等遊民」と相場が決まっている。

なにしろ、彼らは暇である。

しかたがないので、本を読んだり、散歩をしたり、劇
場やサロンを訪れたり、哲学や芸術を論じたり、殺人
事件の犯人を推理したりして生涯を終えるのである。

もちろん結婚なんかしない。

せいぜい同性の友人とルームシェアするくらいである
(ホームズはワトソンくんと、デュパンは「私」と、
明智小五郎は小林少年と)

しかるに、このランティエたちこそヨーロッパにおけ
る近代文化の創造者であり、批評者であり、享受者だ
ったのである。

それも当然である。

新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆ
くとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのよう
な冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がい
ない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある
」などの条件をクリアーしなければならない。

「ねえ、来週から北極に犬橇で出かけるんだけど、
隊員が一人足りないんだ」

「あ、オレいく」

というようなことがすらっと言える人間はなかなか
いない。

ブルジョワジーは金儲けに忙しく、労働者たちはその
日暮らしと革命の準備で、そんな「お遊び」につきあ
っている暇はない。

結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図
と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエた
ちだったのである。

残念ながら、ヨーロッパ文化の創造的なケルンを構成
していたこの遊民たちは1914-18年の第一次世
界大戦によって社会階層としては消滅した。

インフレのせいで金利では生活できなくなってしまっ
たからである。

彼らはやむなく「サラリーマン」というものになり、
そんなふうにして、世界からホームズもデュパンも
明智小五郎も消えてしまったのである。

私はこれをたいへんに惜しいことだと思っている。

哲学的営為とか芸術的創造というのは、単純な話、肘掛
け椅子にすわってじっと沈思黙考しても、寝食を忘れて
アトリエにこもっていても、誰からも文句をいわれない
し飢え死にもしない、というごく物理的な条件を必要と
するものである。

営業マンをやりながら哲学論争を展開するとか、トラッ
ク運転手をしながら芸術運動を組織するというようなこ
とが不可能なのは、適性の問題もあるが、主として「時
間がない」からである。

「ありあまる時間と小金の欠如」というきわめて散文的
な理由がそれらの人々に「ランティエ」的生き方を禁じ
ている。

だが、それこそが現代日本の文化的衰退のおおきな原因
であることはどなたにもお分かり頂けるであろう。

ところが。

ここに「負け犬」という新しい社会階層が登場したので
ある。

その表層的なあり方があまりにかつてのランティエと違
っているために、私はそれに気づかなかったのであるが
、E田さんに指摘されて「はっ」と胸を衝かれた。

「負け犬」は21世紀日本が生み出した新しい「ランテ
ィエ」(女性だから「ランティエール」だね)ではない
のだろうか。

彼女たちは「パラサイト」であるか一人暮らしか、同性
の友人とルームシェアしているか、とにかく「扶養家族
」というものに縛られていない。

職業についても男性サラリーマンに比べて、はるかに流
動性が高く、「定職」というものに縛られていない。

扶養家族がなく、定職への固着がなく、ある程度の生活
原資が確保されていると、人間は必ず「文化的」になる。

「衣食足りて礼節を知る」というが、「時間と小金」が
あると人間は、学問とか芸術とか冒険とかいうものに惹
きつけられてゆくものなのである。

「文化って要するに暇つぶしみたいなもんですよね」
というE田くんのことばはみごとに正鵠を射ている。

そうなのだよ。

まず「暇」が必要なのだ。

しかるのちにはじめて、その暇を「つぶす」ために、
さまざまな工夫を人間は考え始めるのだ。

日本はこのままでは文化的最貧国に凋落する。
これをおしとどめるのはキミたちしかいない。

「負け犬」諸君、日本の文化的未来はキミたちの双肩が
担うのである。

健闘を祈る。

「内田樹の研究室」の2004年2月 より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1月30日

いま評判の酒井順子『負け犬の遠吠え』を読む。

たいへん面白い。

じつに「クール」である。

「クール」というのは、ウチダ的定義によれば、自分の
立ち位置をかなり「上空」から見下ろせる知性のあり方
である。

これまで女性の論客には「ホット」な方が多かった。

それは「女であること」の被害者的・被抑圧者的な位置
を動かず、そこから発言するという戦略上の要請のしか
らしむるところであったのだから、しかたがない。

しかたがないけれど、同じ位置にずっと腰を据えて、同
じ定型的な言葉づかいでしゃべっていられると、聞く方
はだんだん飽きてくる。

フェミニズムはすでにその思想史的使命を終えつつある
と私は思うが、それは別にフェミニズムの理論的瑕疵が
満天下に明らかになったからでも、フェミニズムの歴史
的過誤が異論の余地なく証明されたからでもなく、「そ
ういう言葉づかいで社会と自分の関係を説明するしかた」
にみんなが飽きてしまったからである。

気の毒だがそういうものである。

同様に、私の頻用する「大人になれば分かる」とか「経験
的にそうなんだから仕方がない」というような語法も、い
まは多少の物珍しさもあって通用しているが、いずれ飽き
られて弊履のごとく棄てられることはまぬかれない。

そういうものなんだか仕方がない。

文句を言っても始まらない。

 

ともかく、酒井さんは現代女性を論じる新しい立ち位置を
発見した。

それは誰にも肩入れしないし、誰をも仮想敵に想定しない
し、自己正当化も(ちょっとはするけれど)控えめな、少
し「遠距離」から現代女性をみつめるまなざしである。

このまなざしは「好奇心」にあふれている。

未知の事象を定型に回収して、「しょせんは***にすぎ
ない」というふうに決めつけて終わりにするより、不思議
がったり、驚いたり、ああでもないこうでもないと思案し
たりすることの方が「楽しい」、だから「楽しいことをす
る」というリラックスした構えが一貫している。

私が感心したのは、「30代、未婚、子ナシ」の「負け犬
」に対置するに、「既婚、子アリ」の「勝ち犬」をもって
したことである。

この用語の選択には(本には書かれていないけれど)深い
含意がある。

メディアは「負け犬」「勝ち犬」という区別に着目して、
「勝ち負け」関係に論点を絞っているが、酒井さんのオリ
ジナリティはここにあえて「犬」という貶下的な名詞を配
したことにあるとウチダは思う。

勝とうが負けようが、年齢だとか既婚未婚だとか子どもが
いるいないで人間の価値を判定できると思っているひとは、
「人間」ではなく「犬」だ、そう酒井さんは言い放ってい
るのである(言ってないけど、私にはそう読めた)。

これは実に過激なご発言である(言ってないけど)。

 

ここで採用されている「負け犬」と「勝ち犬」の二分法は
一時期はやった「勝ち組」と「負け組」の二分法に本質的
なところで通じている。

以前、平川くんがきっぱりと言い切っていたように「『勝ち
組になりたい』とか『負け組にはなりたくない』というよう
なワーディングでビジネスを語る人間とはビジネスをやらな
い。だって使い物にならないから」というのが「大人の常識」
というものである。

まして結婚や育児はどう考えても「勝ち負け」という枠組
で論じられるべきものではない。

「結婚したら勝ち」とか「子どもができたら勝ち」というよ
うな判定にはどのような実定的根拠もない。

私が知る限り、偕老同穴のちぎりを守って、夫に変わらぬ敬
意と愛情を抱いている妻などというものはもうほとんど「絶
滅寸前種」であり、既婚者の5%にも満たないであろう。

95%の妻は夫に飽きているか失望しているか憎んでいるか
忘れているかのいずれかである。

育児も同様。

妊娠は苦しく、出産は痛く(いずれもしたことがないから想
像であるが)、育児は苦役である。

子どもはびいびい泣きわめき、うんこしっこを垂れ流し、ご
みを拾い食いし、風呂でおぼれ、どぶにはまり、猫を囓り、
縁側から転げ落ちる。

そのようなものに24時間拘束されることのどこが「勝ち」
なのか。

育児とは、はっきり言って「エンドレスの不快」である。

育児を「幸福な経験」であると断言できるのは、その方がこ
の「エンドレスの不快」を「エンドレスの愉悦」と読み替え
るという詐術に成功したからであって、育児行為そのものの
うちに万人が実感できる「愉悦」などは存在しない。

 

「勝ち負け」という区分は何の実定的基礎づけもない幻想で
ある。

しかし、実定的基礎づけのない幻想であることは幻想が社会
的に機能することを少しも妨げない。

幻想はきちんと幻想を再生産するからである。

この「勝ち負け」幻想は「私よりいい思いをしている人がい
る」という幻想を再生産する。

「いい思いをしている人の仲間に私が入れないのは、○○の
せいである」(○○には「トラウマ」「権力」「抑圧」「私
の真価を理解できない人々」「私に不釣り合いなパートナー
」「あふれる知性」「豊かな教養」などなど好きな言葉を入
れてよい)

自分の現在の「不幸」を他罰的な文脈で説明してしまう思考
、それが「勝ち負け」幻想が再生産し続けるものである。

そして、この「ここより他の場所」「ここより他の時間」に、
「ここにいる私とは別の私」があり、そこにたどりつくこと
を「外部にある何ものか」が妨害しているという話形で自己
規定する人々のことを酒井さんはおそらく「犬」と呼んだの
である(私ならもう少し控えめに「子ども」と呼ぶが)。

子どもはまだ「人間」ではない。

「人間(Mensch)になれ」というのは、ビリー・ワイルダーの
『アパートの鍵貸します』で主人公のジャック・レモンの隣
人のユダヤ人の医師が、都会的で享楽的な生活のなかでぐず
ぐずと壊れてゆく主人公に対して告げることばである。

「人間になれ」

『負け犬の遠吠え』が読者に暗に告げているのはそのことば
のようにウチダには思えた。

「内田樹の研究室」の2004年1月より



負け犬の遠吠え負け犬の遠吠え
(2003/10/28)
酒井 順子

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コメント
この記事へのコメント
さすがに
やまんばさんのお孫さんです。

わかるんですねぇ~
純真な子供の目は誤魔化せません。

悪魔にもしっぽがありますから
くれぐれもご用心、ご用心・・・・・・

2011/08/08(Mon) 16:28 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
人間になれ!^^^^
孫が小さいころ、「婆ちゃんの絵」を描いて 私にプレゼントしてくれました。当時髪がちりちりのロン毛で、それが大きく描かれていて、よく観察してるなあ・・・とみてると、おしりの尾骶骨あたりに紐のようなものが見える。
「これ、なあに?」と尋ねると 可愛い声で「しっぽ」と答える。娘が笑っていうのです。
「この子がお母さんを描くときは、いつもしっぽをかくのよ^^^^^」
思わず、自分のお尻を触った^^^^
ついでに娘が決定的に断言したのです。
「実は 私も小さいとき、お母さんにはしっぽがあると思っていたのよ^^^^^」
「ええ~~~!」やまんばは人間ではなかったの??

そういうわけでかどうか?? いまだに人間になれないでいるようです^^^^^おかしいねえ~~エヘへ
2011/08/07(Sun) 10:15 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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