2010年11月25日 (木) | Edit |
余命は今日(11月25日)を入れてあと36日となりました。
「思い残すことはないか?」と、自らに問えば、沢山
あるはずなのに、以外にも少ししかないのにはチョット
驚いている。

まだ遺言も書いていないし・・・・・、と思うのだけど
書くことが見当たらないのだ。山のような本もCDも
息子が適当に処分してくれるだろうし。

米寿を迎える母親には「有難うございました」と一言感謝
の言葉を言わねばならないだろうなぁ~

欲の目で人生を振り返れば、ああすればよかった、
これもしたかった、どこそこにも行きたかった。
となるのだけれども、何もかもが寸足らずの中途半端なまま
でしたが、充分に楽しい一生でありました。

tono88


自分の体を焼いた後の灰は海よりは、何処かの山に撒いて欲
しいという気持ちが少しあるけれど、それにしたって、
亡くなった後は、残された人の思うようにするのにおまかせする、
でいいではないか。

さて今回は「誰が死ぬのか」(スティーヴン レヴァイン著
「余命一年…だとしたら」より169頁~)を共に学び
たいと思います。

余命一年…だとしたら―残された時間があと一年、と思って生きてみると余命一年…だとしたら―残された時間があと一年、と思って生きてみると
(2001/12/01)
スティーヴン レヴァイン

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私たちは自分が本物のふりをして人生を生きている。
「一人前の人間になれ」「役に立つ人間になれ」と
世間から教えられる。

自分がほとんど存在していないことに誰も気付いていない様子に、
私たちはほっとする。自分とは、あれやこれやの考え、あちこち
漂う感情、幾ばくかの色あせた思い出、指先のかすかな感触、欲
望と信念の板ばさみになった困惑などにすぎないことに誰も気付
いていないようだ。

そこで、大胆にも気取ってみせると、誰も自分の策略を見抜けな
いのに驚く。“一人前の人間”とはどういう人間かと自分が想像
したとおりに演技して、他の役者たちからもヒントを得ながら、
当てずっぽうの演技を続ける。

ほかの人間はみんな自分よりも本物に見える。
相反する考えが錯綜する中で、もつれた糸のような自分がいった
いどうやって死に直面すればよいのか、ましてやどうやって死後
の世界に立ち向かうのかと不安になる。

本物の自分を見つける前に死ぬわけにはいかないと思い、本当に
生きるとはどういうことかを調べ始める。

自分の内側に向かい、まったくの初心者として既成概念を持たず、
人から聞いた知識はいっさい受け入れず、意識の流れに入る。

そこで、思考をしているのは誰なのか、
それをすべて観察しているのは何なのかを探求する。

理想的な科学者のようにまったく“白紙”の状態で臨み、いっさい
の先入観を排除し、あらゆる可能性を考慮し、どんなに都合が悪く
ても真理に目をつぶらず、すべてを吟味する。

aji
阿字観(自分の本不生を徹見する真言密教瞑想法)

これを実行していて最初に出会う概念の一つは、「自分が死ぬと思
う理由はただ一つ、自分が生れたと信じているからだ」というものだ。

しかし聞き伝えの知識は信用できない。自分の手で発見しなければ
ならない。私たちは生れたのかどうか。それとも生れたのは、無限
のものが一時的に宿る器にすぎないのか。なにがいったい生れたの
か。そして誰が死ぬのか。

・・・・・
人生には一瞬しかない。そして次の瞬間が現れて、流れの中に溶け
込む。私たちはこの一瞬から次の一瞬へと生きているだけで、次の
瞬間がどんな展開をするかはけっしてわからない。

けれどもこうしたことの中で何かが私たちの目にとどまる。
人生のあらゆる体験は永続しなかったが、例外がただ一つあること
に私たちは気付く。膨大な普遍の空間があって、その中であらゆる
変化が起きていることに気付く。

この明白な事実をなぜこうも完全に見過ごしてしまったのか。
自分に意識があることに気付いた瞬間から、たとえそれが母親の胸の
上であろうが、体内であろうが、おとといのことであろうが、それ以来、
なにごとが起ころうともただ一つ一定不変のものがあった。

ただ“存在している”という一貫した感覚があった。
特定の“これ”とか“あれ”ではなく、私たちの大好きな
“これ”とか“あれ”を飲み込んでしまうような“存在感”だ。

実際、この根底にある存在感は私たちと同じほど確かで、
誕生から死のあいだに変化しない。不断に変化する細胞の
中でたえずブーンと音を立てている存在の音だ。

この存在感をじかに見て、その中に入って静かにすわっていると、
それには終わりがないことを発見する。

この存在感には始まりや終わりがあるだろうか、それは生れたのか、
死ぬことができるのか、と自分に尋ねてみると、自分の本質について
これまで誤解していたのかもしれないとしか答えられないだろう。

私たちの本質が不死であることを知らなかったし、
死のニュースはひどく誇張されたものだったと答えるしかないだろう。

誕生


・・・・・
それは意識が動き始める前からあった純粋な目覚めた意識だ。
それは考えと考えのあいだの間隙だ。私たちのちっぽけな泡が浮かぶ
海だ。有形のものが依存する無形のものだ。けっして消滅しないこと
を証明するために何度も繰り返し死ぬ不死のものだ。

私たちは、生存するためには肉体が必要だと教えられてきた。
しかし実は逆こそ真なりだ。本当の自分が、それまで自分だと
思い込んでいたものから離れる時、肉体は崩壊し、一瞬のうち
に廃棄物となる。自然保護の究極の形だ。器は捨てられるが、
中身は再生利用される。


死ぬことができるものは死ぬ。
死ぬことができないものは死なない。

これら、存在の二つの側面からどうやって学べばよいかを
自分の力で発見しよう。

そして一つになった全体をいかに愛の心の中に統合するかを
自分で見つけよう。愛の心は人を思いやり人に奉仕する。
無情のものは共感を引き寄せる。無情でないものは知恵をあ
たえる。

あなたはなぜ自分が生れたと思うのだろうか。
あなたはなぜ自分が死ぬと思うのだろうか。

そうした考えを詳細に観察してみると、
そうした考えが浮かぶ広大無辺な空間に気が付く。

私たちは気が狂ったように確かな中心を求めてきたが、
そんなものは存在しない。私たちの中心は広大無辺な空間だ。

何も死なないし、
帽子をかける場所もない。



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